なんつッ亭大将 古谷一郎 【私の履歴書】 シリーズ 「我が人生の歩み」 第9回・ついに開店「なんつッ亭」
お金もなければ信用もない僕は、ようやく物件を手に入れたものの、もともと飲食店ではないので居抜きでは使えず、水回りや設備で600万円程掛かってしまいましたが、これも両親に助けられました。食材の仕入れも「丹沢食堂の息子」という事で取引してくれる業者を見つけました。思えば、何から何まで親にお世話になりっぱなしの開業でした。
それでも、お金を掛けない工夫は僕なりにかなりしたつもりです。当時はたまたま姉夫婦が家を新築していたので、大工さんに頼み込んで、余った壁紙をもらって来て、自分で貼ったり、カウンターの椅子は潰れたスナックから貰ってきて磨いて設置しました。
平成9年9月17日、なんつッ亭開業です。屋号のなんつッ亭は、なんちゃってのノリでした。秦野でバカの代表だったような僕がラーメン屋を始めるなんて「冗談だろ?」「どうせすぐに辞めるだろう」と言われるのは覚悟していましたから、照れというか自虐の意味も込めて「なんちゃって」であり「名前はなんちゃって、だけど味は本物」という意味もあり、更に言うなら覚えてもらいやすい、愛嬌があり印象に残る名前だと思ったからです。ちなみにこの屋号、両親や姉には猛反対されましたし、友達にも鼻で笑われました(笑)。
さて、オープン当日、開店と同時にやってきた2名のご婦人は、子どもの頃から知っているご近所さんでした。でも、せっかくお店に来ていただいたのに、僕は恥ずかしさからか、「いらっしゃいませ」も満足に言えず、ラーメンを作り終えると、そのお二方と目を合わすことも出来ずに厨房裏の休憩室に隠れてしまいました。今の僕からは信じられないかもしれませんが、僕がお店で初めて作ったラーメンを食べたお客様が、どんな反応をするのかが怖くて見られなかったのです。すると、お店から「あんた、美味しいのだから隠れてないで出て来なさい」とご婦人の声が聞こえました。それが今でも忘れない、なんつッ亭開業第一号のお客様でした。
あのお二人の事は、一生忘れません。後から聞いた話では、お袋がうちの息子がラーメン屋をやるから食べに行ってやってと、ご近所さん達に声を掛けて回ってくれていたようです。本当に両親あっての開業でした。
実際にお店を開業してみると、ご近所さんやら友達やらで、1日50人位のお客様がお店に来てくれました。これは順調なスタートだぞと思ったのも束の間、オープンから二週間を過ぎたあたりから誰もお店に来てくれなくなってしまいました。
これは相当ショックでした。味にはそこそこ自信がありましたので、まずは知り合いが来てくれる→美味しいと喜んでくれる→リピーターになる→クチコミが広がる→繁盛する、と勝手に思い込んでいたので、来る日も来る日もガラガラの店内でお客様をただひたすら待っているのが辛くて途方に暮れました。
そんなある日、ふと、スープの味見をしてみて驚きました。不味いのです。どうやらスープを火にかけっぱなしにしているので酸化してしまったらしいのですが、全く気づかなかったのです。そんなことも知らずに開業したのかと怒られそうですが、そこから僕は、僕なりのラーメンの研究を本格的に始めたのです。
その後は、スープの劣化は防げるようになり、味も安定しましたが、それでもお客様は来ない。そこで、なけなしのお金4万円を掛けて、地元で愛されているタウンニュースに広告を入れました。そのお陰か土日はお客様が増えましたが、平日は相変わらずガラガラ。トータルで言えばまだまだ暇なお店でした。
最初のお店の前の道は、小学生の通学路でしたから、僕が暇な店内でぼんやりとしていると、小学生が窓から顔を出して「おじさん、このお店はいつ潰れるの?」なんて憎まれ口を叩かれた事もあります(笑)。でも、やる事もなく暇な僕は、そんな小学生をお店に招き入れ、余った麺でラーメンを作って味見をして貰ったり、味付け卵の失敗作をおやつ代わりにあげたりしているうちに、店のお昼休みはいつしか小学生の溜まり場になっていました。
子ども達は真っ直ぐで正直です。暇な僕は一緒に絵を描いたり字を書いたりして何とか子ども達を喜ばせようとしている中で、今のなんつッ亭のキャッチコピーとも言える「うまいぜベイビー」が生まれたのです。言ってみれば、暇と小学生と僕の共作が「うまいぜベイビー」なのです。
(次号につづく)
|
|
|
|
|
田原ふるさと公園野菜直売研究所0463-84-1281/そば処東雲0463-84-1282 https://www.kankou-hadano.org/pointinformation/pointinformationguide/point_tawarafurusatokouen.html |
|
|
|
|
|
|
<PR>
|
|
|
|
|
|