秦野 文化
公開日:2025.07.11
ローカルスター大津雲山
南画家 大正天皇御前で揮毫も
中国の「南宗画(なんしゅうが)」の略語で、江戸時代に伝来した南宗画をもとに日本独特のものとして生まれた「南画(なんが)」。その世界で脚光を浴びたのが秦野出身の画家、大津雲山(おおつうんざん)(1885-1971)である。太平洋戦争以前は東京で活躍し、戦争が激化してからは故郷秦野へ疎開。戦後は秦野で多大な足跡を残した”ローカルスター”大津雲山に迫る。
今年3月上旬、はだの歴史博物館(堀山下)では市制施行70周年記念の企画展「大津雲山展-秦野に生まれた南画家-」(3月29日〜5月25日)の準備が進んでいた。10年ぶりの開催となる雲山展は、博物館が所蔵する掛け軸や屏風、色紙作品で構成が練られていた。しかし、開幕に向けて企画展が周知され始めると、市民から連絡が寄せられるようになった。
「うちにも作品があるからよかったら使って」
展示を担当した市職員の小林巧さん(31)は、「大津雲山が描いた絵の掛け軸など市民の方から3、4点をお借りして、急きょ展示に組み込みました。企画展をやってみて、市民が大津雲山に愛着を持っているのを知ることができてよかった」と振り返る。
東田原生まれ地元画家に師事
雲山は、1885(明治18)年に大住郡東田原村(現在の秦野市東田原)に生まれる。本名「市造」。菩提寺の金剛寺(東田原)に仏弟子として入門し、住職から雪舟の逸話を聞き画家を志すように。初期は、地元の南画家の山田永耕や森崎和三郎に教わった。
そもそも南画とは、中国の南宗画に由来し、これを日本的に解釈した絵画である。水墨画の一種で、柔らかなタッチで山や水、花、鳥を描いた作品が多い。
上京後、小室翠雲や松林桂月といった著名な画家に師事。その桂月から、故郷の雨降山(大山)に由来する「雲山」の名を授かる。頭角を現していった雲山は、1917(大正6)年に天皇の御前で揮毫し腕前を披露。「帝展」など当時の代表的な公募展でも多くの栄誉を受けた。
そんな目覚ましい活躍を見せていた雲山。「戦前は中央で勝負していたが、戦争によって活動が変化していった」と、はだの歴史博物館の学芸員・大倉潤さん(57)は解説する。
太平洋戦争が転機「中央」→「地域」
太平洋戦争の戦火を逃れるべく、1945(昭和20)年、雲山は生まれ育った秦野へ妻とともに疎開。息子は戦死し、妻も直後にこの世を去った。人生の大きな転機を迎えた雲山だったが、地元の支援者の存在もあってか故郷で創作を続けていく。
学芸員の大倉さんは雲山の人物像についてこう語る。「有力者から財政的支援を受けたり、弟子がいたりという点から、おそらく人当たりがよかったのではないか」。後に漢詩を詠むようになった雲山は、同人会「南秦吟社」を創立。手がけた絵に、漢詩を添えた作品が残っている。
秦野の風景を題材にした「秦野八勝図」では、震生湖や弘法山、実朝首塚と郷里を存分に描写。雲山の絵は、掛け軸や屏風として今もなお市内の家々に残る。春の企画展を手がけた小林さんは、「地域に愛された大津雲山を後世に伝えていかなければならない」。
はだの歴史博物館では、雲山作品の寄贈を受け付けている。
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