1945年5月29日、容赦なく降り注ぐ焼夷弾が横浜の市街地を焼き払った。横浜大空襲。街が猛火に包まれた78年前のあの日、人々は何を目の当たりにしたのか。大空襲を生き抜いた長津田在住の鈴木康弘さん(91)に話を聞いた。
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マリアナ基地を発進したB29編隊517機が横浜上空に現れたのは、午前9時20分頃だった。投下された焼夷弾は43万8576個、2569・6トン。1時間余りの爆撃で、中区、南区、西区、神奈川区を中心に街が灰燼に帰した。
5歳で父を事故で亡くした鈴木さん。女手一つで育ててくれた母は、石川町の洋服店で働き「ドイツ人女性など主に外国人向けにワンピースなどを作っていた」という。
大空襲の日、13歳だった鈴木さんは、同店の裏手にある山に親しい子どもたちと共に登り「寝そべりながら、爆撃機が焼夷弾をバラバラ落としていくのを見ていた」。始めは日本の高射砲が米軍機に届かない光景を「面白がっていた」が、段々「怖くなってきた」。
防空壕にしばらく避難し、落ち着いてから石川町にある自宅に帰ると、家屋は砲弾に貫かれ、燃えていた。母が大事にしていたミシンを背負い、母の実家がある長津田を目指して姉と2人、防空壕に隠れては歩きを繰り返しながら進んだ。焦げ臭いにおいが漂う道のり。途中、無残に横たわる死体を数多く目にしたが「悲しんでいる暇なんて無かった。ただ怖いと感じただけ。あまり思い出したくないですね」。自身の靴底は圧縮したボール紙でできており、歩くうちに踵部分を残して擦り切れ、半分裸足で歩を進めていた。
運休を懸念したが、妙蓮寺駅に到着すると東横線が走っていた。向かった菊名駅で横浜線に乗り継ぎ、長津田にたどり着いた。子守りのために実家にいた母。最愛の子らとミシンの生還に「ありがとう」と、心の底から感謝が込み上げた。
それから2カ月半後。玉音放送を聞いた鈴木さんは「良かった。これでようやく終わったんだ」。胸に広がったのは敗戦の哀惜ではなく、終戦の安堵だった。
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