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戸塚区・泉区 社会

公開日:2013.05.30

戦中・戦後を生き抜いた戸塚区民が語る 不定期連載
語り継ぐ戦争の記憶【5】
―金髪に憧れた少女たち―

  • 小学校で同級生だった3人。左から下田さん、山村さん、樋口さん

 「勝てばお汁粉の風呂に入れる」――。夢のような先生の言葉を信じ、お国のためと我慢を強いられながらも耐え抜いた戦争。厳しい時代にありながらも、そこには「日本は勝つ」という明確な目標を抱きながら、強くたくましく過ごした子どもたちの姿もあった。



◇◇



 中和田国民学校(※)の同級生で、現在も家族ぐるみの付き合いが続く山村博さん(82)、樋口時男さん(81)、下田雅子さん(81)。太平洋戦争が勃発したのは、3年生の冬だった。学校生活は戦争一色に染まり、旗色が悪くなってきた1944年ごろには東京や横浜中心部からの疎開者が加わって教室はすし詰め状態に。児童らはまともに教育を受けられず、勤労奉仕に出動。出征で男手が足りない農家を手伝い、繊維の代用になる桑の皮むきは「兵隊さんの軍服になる」と説明を受け、作業の速度を競い合っていた。



のぞき見た抑留所



 近所には、かつて避病院(伝染病の隔離病棟)として使われていた建物を利用した外国人女性の抑留所があり、オーストラリア人やイギリス人などが収容されていた。



 学校では『鬼畜米英』と教え込まれていた時代で、施設に近寄るのはスパイ行為だと禁じられた。とはいえ、女の子たちにとってはこれまで見たことがなく、憧れの存在でもあった金髪の女性を目にできる絶好の機会とあって、こっそりとのぞきに出かけていた。「『ルーズベルトはズルズルベルト』なんて笑っていたけれど、みんな敵対意識はもっていなかった」。それは大人たちも同様だったという。



育まれた心の交流



 小学校を卒業して5カ月後に戦争が終わった。ほどなくして、米軍機が飛来して学校の校庭にパラシュートをつけた木箱を投下。それは抑留者に向けた菓子などの救援物資だった。



 すると、山村さん宅に抑留所の女性からチョコレートが届く。遠く離れた敵国で施設に閉じ込められた生活を不憫に思い、管理人を通じて度々ふかし芋を差し入れていた山村さんの母。思いやる気持ちは、確実に通じていた。戦時中とはいえ、庶民の間では敵味方を超えた心の交流が静かに育まれていたのだ。



 8月末、厚木飛行場に降り立ったマッカーサー元帥が宿泊地のホテルニューグランド(中区)に向かうため長後街道を通過。沿道には噂を聞いた地元住民が駆けつけ、勝利に歓喜する米兵を乗せたトラックやジープなどの車両が列をなして走る姿をひっそりと見守った。下田さんは金髪女性のドライバーを目にし、「女の人でも運転ができるんだ」と衝撃を受けたという。



※現・中和田小学校(泉区和泉町)。86年の分区前まで所在地は戸塚区だった。



あなたの戦争体験を聞かせて下さい。【電話】045・824・6800

 

戦後70年 語り継ぐ戦争の記憶

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http://www.townnews.co.jp/postwar70.html

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