盛衰見届け半世紀岡村の入江さん 生糸産業、染色で支える 富岡世界遺産に感慨
ユネスコの諮問機関イコモスによる群馬県の「富岡製糸場と絹産業遺産群」の世界文化遺産登録勧告を受け、関心が高まる生糸産業。開港以来、横浜の港は世界中に生糸を送り出し、街の発展を遂げてきた。貿易やスカーフの生産など、地場産業にまで成長した横浜の生糸産業。その一部を担った染色会社が、かつて岡村4丁目に存在した。
2003年まで岡村にあった染色会社・富士染工(株)は、1953年「入江染工」として創業。起業後2年で病に伏した父親に代わり、入江弘さん(80)は22歳で家業を継いだ。
開港以来、生糸の輸出を担ってきた横浜。当時は生糸製品に関わる産業が盛んだった。中でも、高い品質や、型に合わせ色とりどりの塗料を乗せる捺染(なっせん)技術が世界最高水準と認められていたスカーフは、欧米や中近東などで人気を博した。
富士染工(株)もその生産・貿易に携わった企業の一つ。24人の従業員を抱え、輸出用スカーフやインドの民族衣装・サリーをはじめ、日本人形の肌に用いる布やランプシェードの傘など、国内向けの様々な生地を約50色に染めた。
工場があったのは、岡村交番前の交差点を岡村小学校の方へ登っていく坂のふもとあたり。入江さんは「夕方になると製品を港へ運ぶ運送会社のトラックが来る。何千枚ものスカーフを送り出すため毎晩残業した」と語る。
染色は、染料の配合のわずかな違いで色が変わる繊細な技術。海外から高い評価と信頼を受けていた横浜のスカーフは、見本と同じ色に染まらないと染め直しを要求された。
40代の頃からは県輸出染色協同組合の理事を務めた。その功績から94年に県民功労賞を、97年に黄綬褒章を受章。70歳で体を壊すまで、会社の経営を続けた。
6月末にも世界文化遺産登録の可否が決まる富岡製糸場への注目を受け、入江さんは「近年は安く染色できるアジアの国に生産が移ってしまったが、質の高い横浜の生糸産業にも光が当たれば」と話した。
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