日蓮宗樹源寺 権住職 日比(ヒビ)宣仁(センジン) 連載34 法話箋 〜鹿苑〜 「悟りの智慧―常と無常の調和―」
「私」は、私が生まれてから死ぬまでずっと「私」なのでしょうか。釈迦によれば、「私」は一生「私」でありながら「私」ではないそうです。「私」は自分の成長を願い、体を鍛え、学問をします。それらの鍛錬前後の「私」はまるで別人です。その意味で「私」は常に変化をし続け、一瞬たりとも固定された「私」である時はありません。この場合、「私」は無常(むじょう)です。しかし、それらを達成する前も後も、「私」は「私」に他なりません。この場合、「私」は常(じょう)です。このように、「私」という存在は、無常と常という矛盾する両側面を兼ね具えています。しかし、私たちはこれらの矛盾に疑問を持たずに日々過ごしています。それは、常と無常の二辺(にへん)の調和を洞察しているからです。この洞察力が悟(さと)りの智慧(ちえ)です。しかし、過去にとらわれたり、現在の安定に固執したり、まだ見ぬ未来に鬱つを抜かしている時、私たちの智慧は煩悩の闇に侵されます。この状態を愚痴(ぐち)と呼びます。
|
<PR>
|
|
|
|
|
|
|
<PR>