鶴見区 社会
公開日:2025.07.24
戦後80年 語り継ぐ記憶
戦争の根絶願い、経験語る
歴史の会の座談会で4人が
鶴見歴史の会主催の座談会「いま語り合う 私の戦争体験」がこのほど、鶴見中央コミュニティハウスで開かれた。
戦後80年を機に、区内在住の4人をパネリストに迎え、戦中・戦後の鶴見の様子や疎開時の体験談を語り継ぐために企画された。
当日は、金子倶万さん(88)、山崎栄子さん(89)、上原澄子さん(91)、杉山茂生さん(94)の4人が登壇。振り返りながら平和への思いを語った。
金子さんは太平洋戦争が始まった当時4歳。父は潮田銀座通りで洋品店を営んでいたが、衣類が統制品となり商いが自由にできなくなったことから廃業し、井土ヶ谷にあった衣料品の配給事務所に勤めた。
「戦争が始まった当初、1942年頃には潮田神社の社殿に通じる道に食品を扱う沢山の店が軒を連ねていたのを思い出します。映画館があったり、風呂屋、呉服屋などもありました」と当時を振り返る金子さん。
そして1945年4月15日に起きた鶴見大空襲。午後9時過ぎに警報が鳴り、金子さんは家族と共に自宅裏庭の防空壕へ避難。しばらくして火災が迫り、岸谷の潤光高等女学校(現・法政大学国際高等学校)まで避難し、夜を明かした。「逃げる途中の産業道路で上空にB29が見えた。空からキラキラ光るテープ(電波妨害のためのチャフと思われる)が降ってきたのを覚えています」
「翌朝、潮田のまちに戻って目にしたのは全てが焼失した焼け野原でした」と金子さん。幼少期から遊び場として親しんでいた寺の境内や料亭の大広間、商店などが一夜にして「廃墟となった」
家が焼かれ、住処を失った金子さん家族は母の実家の横浜市緑区長津田に移り住み、終戦を迎えた。「1937年生まれの私は、日中戦争、太平洋戦争、そして終戦後の混乱を幼児・小学生として過ごし、戦争の影響を社会的にも個人的にも受けた立場として、紛争や戦争の根絶を強く願います」と語った。
「戦争は本当に残酷」
最後に講演した杉山さんは、満州事変の起きた1931年に生まれ、日中戦争、そして太平洋戦争が終わる中学2年生までを戦時下で過ごした。杉山さんは戦時中の軍国主義で子どもたちがどのような教育を受けてきたかなどを語り、戦争で父と兄を亡くした経験から「戦争は本当に残酷なもの。もう二度とすべきではない」と語った。
山崎さんと上原さんもそれぞれの経験談を語り、参加者たちが熱心に聞き入っていた。
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