高津物語 連載第九五〇回 「溝口の水事情」
大山街道溝口は、下作延寄りを上町と呼んでいた。
夏の台風シーズンには、毎年のように平瀬川が氾濫し天井に吊下げた小船を降ろして使うのを毎年繰り返した。
平瀬川の大水が出るにも関わらず、掘っても水が出ない土質だったから、飲料水にほとほと困り果て、飲料水の不便を解消する為に、古人は知恵を出し合って、各方面から水を貰い受けた。
最も古いものは「四番組井戸」で、久本天井戸の岡医院から、片町の親戚「大田医院」や村田豆腐店までを孟宗竹を組んで送水管を造り、周りをシビソダで巻いた水道管にして、土中に埋め、木製桶に一回貯めた後で、大山街道東側の家々に、竹筒で二十数軒に配水したから、受け入れる側の各家々では土管で型枠を作って、水溜として、飲料水としたという。
宗隆寺寄りの西側の家々は、安政二年(一八五五)溝口名主丸屋七右衛門裏の田中屋の土地に井戸があり、豊富な水が出たのを奇貨として親井戸とし、此処から大山街道沿いの西側の家々を「木管」で繋ぎ、途中五か所の呼び水井戸を設けて、組合員二十二人の呼び水井戸に配水した。
これに掛かる費用は全額組合員負担で、「井戸洗い」は、二か月に一回の年六回、七人ずつ交代の三交代で行う等に定められ、竹材の傷んだ部分を交換したり、修理したり新竹材と交換したりして、最後に毎年四月十七日に、溝口神社に詣でて参道左側にある「水神様」=写真=を洗い浄(きよ)めて水への感謝を忘れることが無かった。
というのも、溝口神社参道左側は、「宮井戸」という共同井戸があった場所とされ、それを記念して安政三年(一八五八)に「水神様」が祀(まつ)られた経緯があった場所で、安政三年八月は、大風と大雨、そして洪水が溝口地方を襲った事が『多摩川氾濫年表』に明らかだ。
「多摩川氾濫年表」は、文禄二年(一五九三)から記録され、実に三百八十年に渉(わた)る多摩川洪水百二十回の氾濫が記録されている。
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