郷土史には記録されない、たかつの記憶をたどる まちのこぼれ話 戦争中の記憶 資料提供/高津区
このコーナーは「高津区おはなしアーカイブ〜地域のこぼれ話を拾う〜」で紹介された地域の方のインタビュー記事の一部抜粋して紹介しています
あす8月15日、75回目の終戦記念日を迎えます。
これまで「まちのこぼれ話」にご登場いただいた12名の戦争にまつわる記憶を抜粋して紹介します。
第1話 英 径夫さん(二子・瀬田・諏訪)
◆焼夷弾のかけら再利用
生まれたのは、東京の神楽坂。空襲で家が焼け、あちこち転々として、最後にたどり着いたのがここ。昭和20年の10月からこちらに来た。住んでいたのは二子の大貫病院の裏で、253番地っていっても今の人はわからないかな。逆に今の番地は知らない(笑)。子どもだったから細かいことは 解らないけど、父親が戦時中、今の消防署の前のあたりの工場に徴用されていた関係で、この辺に来たんだと思う。
2〜3カ月茨城にいたことがあったから、引っ越してきた当初は、田舎とは感じなかったけどね。ただ、荒れているなぁ〜と思ったね。というのも、あちらこちらに焼夷弾のかけらが落っこちているし、壊れた家もずいぶんあるし。
いっぱい落ちている焼夷弾を拾ってきてドブ板の代わりに使ったりしてね。再利用していた。六角形の筒だったから、縦に渡して並べるとどぶ板にちょうど良いんだよ。
第2話 加藤 孝市さん(下作延・上作延・向ヶ丘)
◆焼夷弾の音、今も耳に
昭和20年5月26日、家が焼夷弾で丸裸に焼けました。当時4歳。あたりが真っ赤になって、焼け跡には60センチくらいの焼夷弾が竹やぶにたくさん落ちていて…怖かったです。「ヒューヒュー」って音は今でも覚えています。毎晩防空壕に行って寝ていました。竹やぶが近くで、とにかく毎晩蚊がすごかったです。昼間は、毎日出征する兵隊さんを道に立って見送っていた。今思うと毎日何していたんだろうって思う。これが私の戦争の記憶です。父は出征していて、終戦の時は和歌山で出兵の時を待っていたそうです。だからすぐに復員してきました。私が2歳くらいの時に出征していたので、父親としての記憶がなくて、帰ってきた時は父親?って感じで「なれるのに少し時間がかかったよ」と母は笑いながら言っていました。
戦後直後は、落ちている焼夷弾を集めて持っていくと、森永ミルクキャラメルの大箱1つは買えたという思い出もあります(笑)。農家だったので食べ物に困ることはなかったけど、母は戦争中、焼夷弾が落ち、朝鮮動乱の時は有馬の方にB29が墜落し、命を落とした人を間近で見ていたので「命を守ることが本当に大変だった」と言っていました。
第3話 青山 昭久さん(溝口・久本・坂戸)
◆松根油が飛行機の燃料に
戦時中、高津小は兵舎になって、九州の部隊が来ていました。方言で話すから、最初は何を話しているのかわからなかったです。兵隊さんたちは多摩川の河原に穴を掘っていました。その穴のことを「蛸壺」って呼んでいましたね。機銃掃射の時に避難するための、人間1人が入れるくらいの穴です。私たちは土を運んだりして手伝っていました。穴掘りの他に、河原にたくさん生えている松の根から松根油を採取していました。これは飛行機や自動車に使う、ガソリンの代用燃料になるんです。根っこを掘って車に乗せる、これが兵隊さんの仕事だった。手伝っているうちに兵隊さんとも仲良くなりました。
空襲は毎日のようにありましたよ。やられたのは機関銃です。近くに日本光学があったのでこれを目標にされ攻撃されていました。
あと、津田山に高射砲(地上から航空機を攻撃するための火砲)の陣地があったからね、それでB29が来なかった。高射砲はものすごく精度がよくって何機か撃ち落としたって、そう聞いていますよ。
戦後になると、GI(アメリカ兵の俗称)さんが砂利を運びに来て、おかげで片言の英語も覚えたし、チューインガムだのタバコを貰ったり。父が喜んでねえ(笑)。その頃はタバコが中々手に入らない時代だったからね。「パパに持っていけ」ってケースでドーンとくれたんです。
第4話 宮田 義彰さん(梶ヶ谷・末長・新作・千年・千年新町)
◆戦闘機グラマンの墜落
戦時には徴用工といってね、強制労働にかりだされたんです。軍需工場で働くとかね。それで日本工学の地下工場を作るための穴掘りをやりました。地下工場ですよ。大変なことでした。結局終戦までには出来上がりませんでしたね。新作はね、戦死者がとても少なかったです。橘村のうちで、焼夷弾も爆弾も落とされなかったのは新作だけなんです。現在、新作のバス停がある辺りに爆弾の不発団弾が落ちていたことがありましたが、62部隊が来て処理していきました。小学校高等部の時、勤労動員で働いていた東中製作所から帰ってきたら、敵のグラマンが墜落していたんです。いやあ、ビックリしました。操縦士は生きていて捕虜になって、処刑されたって聞きました。私は徴兵されなかったんです。それで志願兵の試験を受けたんですがなかなか入隊できなくて、待機しているうちに終戦になっちゃった。
第5話 山田 義太郎さん(子母口・明津・蟹ヶ谷久末・野川)
◆B29の迫力間近に
私はね、6年生の時から学徒動員に行ったの。だからね、小学校の卒業証書をもらってない。学徒動員を終えてから、成人学校に1年間通いそこは卒業しました。学徒動員では新城駅近くの工場へ弁当持参で通いました。そこで養成所ってところに回され、旋盤の仕事を基礎から習ってネジ切りって難しい技術までやりました。機械が好きだったから、結構夢中になってね。おかげで随分いろんな旋盤の技術を覚えました。そこは横浜や大磯から来ていた者もいました。戦時中はB29が3機編隊で頭上を飛んでねえ。恐かったですよ。
蟹ヶ谷に海軍の通信施設があったから、それが目標にされたんだね。爆撃されて、大きな、幹が一抱えもあるような松の木2本がスッパリ切り取られたようになっていたのをよく覚えている。
終戦は14歳の時でした。もう少し戦争が続いていたら私も徴兵されていたんでしょうねえ。玉音放送は家族そろって自宅で聞きました。でも言葉が難しくてよく理解できなかったですよ。戦後、浅草の方まで墜落機を見に行ったんですよ。B29って細長くてものすごく大きいんだよ。本当にすごい。
第6話 河原 定男さん(久地・宇奈根・北見方・下野毛)
◆神風が吹いた
父は背が低かったので戦争には行かず、消防団員を長くやっていて空襲警報が出ると火の見やぐらに行きました。宇奈根は空襲を受けなかったです。久地駅の近くでは、低空飛行で爆撃機から焼夷弾が落ちたのは見たことがありますよ。焼夷弾は宇奈根ではほとんど河川敷に落ちました。川向こうの宇奈根は、空襲を受け神社も焼けたと聞いています。「ここは神風が吹いた」って言われていました。お祖父さんの兄貴が行者で、白い装束で杖ついて富士山に登るような恰好でジャラジャラ鳴らしながらこの辺りを歩いていたことは私も覚えています。でもそれで風が吹いたかどうかはね(笑)。戦争中、田んぼがない地区なので、押し麦を混ぜて炊いてました。果物は木を切り、殆ど無くなりましたから。
第7話 石塚 卯三夫さん(二子・瀬田・諏訪)
◆「ただいま帰りました」
小さいときから、航空機関係の事が好きだったので軍隊に入ってから非常に役に立ちました。当時の世界各国の航空機の性能全てを暗記していましたので、初年兵が将校、先輩に教えたことが一番の思い出にあります。戦争が終わり復員をして来た時、高津の町が焼けていなかったことと、両親に「ただいま帰りました」と報告できたことが、一番嬉しかったですね。
第8話 大竹 寿一さん(下作延・上作延・向ヶ丘)
◆薬莢クズ屋に持ち込み
父は戦争には行っておりません。日本光学の指定社員だったということで。私は幼いころ2年間ほど福島へ疎開していました。家族も一緒だったので、特に寂しいということはなかったですね。白米も食べられたように記憶しているし、広々とした自然の中で遊べたのはよかったなあ。終戦後、日本光学の社宅で過ごしました。100世帯程住んでいましたかね。
津田山にはものすごく大きな防空壕の跡地があってね、そこに色んなものが置いたままになっていたんです。そういう物を使って遊びましたね。皆で薬莢拾いもよくやったなあ。薬莢が落ちていることがあってね、それを拾ってクズ屋に持っていくと買い取ってくれるんです。遊ぶには良い場所でした。
第9話 斉藤 マキ子さん(溝口・久本・坂戸)
◆兵隊さんに千人針
昭和20年になると、私達も学徒動員で日本光学の一番端っこのところに日本通信という会社の分社がありましてね、そこに行くことになりました。通信関係の会社ですから、鉄心を組み立てたり、コイルを巻いたり。
最初は戦争も勝っていましたけどね、皆「勝ってくるぞと勇ましく」って出て行くんです。けれど私の記憶に残っているのは、学生の時分、大学生が皆、列をなして戦争に行く風景。私達は慰問袋を作ってあげました。学生さん達は予科練に行って、皆死にに行くんでしょ。それがかわいそうで一番記憶に残っていますよ。兵隊さんに持たせるために、千人針も刺しました。兵隊さんがお腹に巻いていったんでしょうね。街頭で刺してもらう人もいましたね。本当にかわいそう‥。でも、みんなが出征しましたから‥。送り出すときは日の丸の旗を持って、「お国のために」っていっても、かわいそうでした。20歳くらいの若い方達でしたからね。今の人達にも、知っておいてほしいです。
第10話 高品 千鶴子さん(梶ヶ谷・末長・新作・千年・千年新町)
◆62部隊の面影残る街
昭和46年に梶ヶ谷に越してきました。梶ヶ谷2丁目は社宅が多かったですね。これは62部隊の国有地を一部建設省の社宅にしたと言われてます。戦時中は、虎ノ門病院や宮崎中学校 には兵舎があり、今の青少年の家は将校の ゲストハウスとして使われていたそうです。私の父が軍人でしたので、私の引っ越す場所を聞いて「もしかしたら、62 部隊のそばではないか」と言われましたが、そのとおりでしたね。
第11話 沼田 忠男さん(子母口・明津・蟹ヶ谷久末・野川)
◆蟹ヶ谷の基地狙われ
戦時中は蟹ヶ谷に羽田と成田を結ぶ無線電信基地がありました。基地を狙ってB29や焼夷弾も襲ってきましたね。基地のそばに防空壕があって中に入れられたことを覚えています。父は出征して外地(フィリピン、マニラ)で戦ったそうです。昭和21年に復員してきましたが、弾が顎から歯を貫通し左手の肘も負傷した傷痍軍人でした。右腕一本では畑仕事ができる状況ではなかったから、母と祖母が農業をしていました。大変だったと思います。当時はみんなそうだったし、苦労を苦労とも思わず、全部周りと同じようにして暮らしてきました。今は贅沢な時代になりました。
第12話 長岡 榮子さん(久地・宇奈根・北見方・下野毛)
◆「早く終わってほしかった」
戦前はこの辺りでは桃を作っていたんですが、戦争が始まってからは穀物を作らなくちゃいけないってことで、みんな切られちゃいました。梨は復活したけれど桃は復活しなかったですね。北見方は正福寺のところまで全部焼けたんです。何もなくなって宮内まで眺められたそうですよ。
父は出兵しなかったですね。叔父は戦争末期のころに兵に出たそうです。でも国内にいたまま終戦に。叔母が一度だけ会いに行けた時に、小豆を煮てぼた餅を作って持っていったんですって。叔父は噛まずに飲み込む勢いで召し上がってとっても喜んでいたそうです。家には砂糖なんてなかったのに。どうやって工面したのかしらね。
終戦は小学5年の夏でした。そんなにショックは感じませんでした。戦争しているときから勝つなんて思えなかったですものね。ただただ早く終わってほしかったです。
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