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麻生区版 公開:2012年12月14日 エリアトップへ

柿生郷土史料館タイアップ企画 柿生文化を読む 第28回 生麦事件の真相を探る(3)前編

公開:2012年12月14日

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 今回はシリーズ「生麦事件の真相を探る」の第3回(前編)です。

 〈事件発生の根本原因は何か〉

 この事件は、日米修好通商条約締結等により尊王攘夷の風潮が高まっていたという背景の中で発生した事件で欧米人に対してかなり過激な行動を取る日本人が急増した頃の出来事です。実際に事件発生の前後にはロシア軍士官殺傷(1859年)、アメリカ公使館ヒュースケン襲撃(1860年)、オランダ船船長殺害事件(1860年)、第1次東禅寺事件(1861年/フランス人3人殺傷)、第2次東禅寺事件(1862年/松本藩士イギリス公使館襲撃)、井戸ヶ谷事件(1863年/フランス人3人殺傷)、鎌倉事件(1864年/イギリス陸軍軍人殺傷)など、主たるものだけでもこれだけの件数にのぼっています。そのような状況の時にリチャードソン一行は領事館からの正式な通告は受けていなかったものの、友人から「今日は島津氏一行の通行があり、危険多ければ見合すように」との忠告を受けながらも大師見物を決行しています。

 この時代、日本の文化や習慣を理解している外国人は大名行列に遭遇した場合は下馬し、脱帽して敬意を払っていました。しかし、多くの外国人は平然と乗馬のまま近づいたり、傲慢な態度をとったりするため、薩摩藩などではこの状況と十分注意すべき旨を各公使館に伝えてもらいたいと幕府に申し入れをしていました。

 アメリカ公使ロバート・ヴァン・リードは「彼ら(4人のイギリス人)は傲慢で、自らが招いた災難であった」とリチャードソン等を非難しています。知日家のイギリス人アーネスト・サトウは知人への手紙の中で、「島津の家来たちは他の外国人に対して危害を与える意識はなかった」と暗にリチャードソン自身の問題であったことをほのめかしています。

 事件直後に現場にかけつけた医師のウィリスは「当時の外国人(欧米人)がアジア各国の人々に対する非友好的でおごり高ぶった態度は、誇り高い日本人にとって耐え難い屈辱ではなかったか」と兄にあてた手紙に書いています。

 これらのデータを見ますと、当時の一般的な欧米人が植民地などのアジア諸国に対してとった不誠実な態度や考えが如実にあらわれています。生麦事件の原因として最も大きなものは、欧米諸国が殖民地政策として取ったアジア諸国へのおごり高ぶった対応と他国の文化にしっかりと向き合える心や態度の欠如であったのではないでしょうか。

 もしかしたら、今日の日本人も他国の人々や文化に対して尊大な態度をとるようなことはなかったでしょうか?

次回後編へ続く。
 

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