麻生区 コラム
公開日:2013.07.12
柿生郷土史料館タイアップ企画
柿生文化を読む
第37回 明治初年 柿生にも起きた廃仏毀釈運動を考える(1)
【廃仏毀釈とは】
明治元年(1868年)新政府が神仏分離令を出し、それまで神社と寺院が一体化していたものを切り離すものでした。実質的には仏教を排斥する運動につながり、全国各地の寺院や仏像、仏具などが破壊されることになりました。柿生でも主に真言宗寺院が廃寺となったり、仏像が壊されるという事態に発展しました。
【柿生の廃仏毀釈跡】
左下の写真は黒川の真言宗「金剛寺」跡の毘沙門堂近くに見られる石仏で、多くの石仏の上半身が破壊されています。この寺院は明治初年に廃寺となったようですので、恐らく廃仏毀釈運動によって廃寺となり破壊されたのでしょう。
かつて柿生には様々な宗派の寺院がありました。これを見ますと廃仏毀釈の関係で明治初年に廃寺となった寺院数は真言宗が一番多いようです。廃寺となった寺院としては現在、地名だけ残っている真言宗の「真福寺」があります。真福寺交差点からさらに50mほど王禅寺方面に進みますと、右側に真福寺跡が見えてきます。墓地はさらに跡地の標識より小道沿いに上に上がったところにあります。また新編風土記稿には万福寺村の十二神社近くに真言宗の「医王寺」が存在しました。これも明治初年廃寺となり、現在では残っておりません。なお万福寺は戦国時代の「小田原衆所領役帳」には登場しており、中世後期までは存在しましたが、江戸時代にはすでに廃寺となっていたようです。その理由は不明です。
【以前、神・仏はどんな関係にあったのでしょう】
江戸時代までは、寺院と神社は一体の関係にありました。今でも寺院境内に神社や祠(ほこら)があって神様が祀られていることがあります。江戸時代ではこれがごく普通のことでした。
そもそも仏教が日本に入ってきたのが538年、朝鮮の百済(くだら:ペクジェ)の聖明王が欽明天皇に教や仏像を献じたのが始まりでした。日本にはもともとたくさんの神がおり、主に自然物を神として崇拝するアミニズム(山や石、大木などの自然崇拝)の形態をとっていました。それは縄文時代・弥生時代そして古墳時代へと祭祀儀礼として引き継がれてきました。したがって日本の信仰は仏教に比べると経典があって高い理論に裏付けられた宗教では決してありませんでした。
日本のそれは宗教というよりも、むしろ日本人が長い間自然環境の中で育んできた原始信仰という文化であったのです。ですから宗教として確立された仏教とは全く次元の異なった存在であったわけです。それは決して対立する性質のものではなかったのです。それがやがて日本に仏教が広まる理由になったものと思います。
「日本書紀」には欽明天皇が百済から伝わった経を見て『昔から今日までこのように優れた教えは聞いたことがない』 『西の国が献上した仏の顔はなんと気高く(けだかく)厳か(おごそか)なことか。今まで見たことはない』と蘇我氏とともに絶賛しています。一方、物部氏・中臣氏は『我が国は今までたくさんの自国の神々を祀り拝んできました。今、隣の国の神を拝むということは国神(くにつかみ)の怒りに触れてしまいます。』と反対しました。仏教の是非は豪族同士の争いに発展し、最後は仏教賛成派の蘇我氏が反対派を抑え、やがて摂政となった聖徳太子とともに仏教興隆政策を推し進めることになります。(以下次回に続く)
参考資料:「神仏習合」連日出典・「神仏分離」(圭室文雄)(文:板倉)
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