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麻生区版 公開:2013年12月13日 エリアトップへ

麻生の歴史を探る 法雲寺と笹子姫

公開:2013年12月13日

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 麻生区の高石に法雲寺と呼ぶ古刹があります(写真)。法恩寺ともいう尼寺で、武蔵風土記稿には、臨済宗菅村寿福寺の末寺と記され、「天正の水帳に宝音寺と言えるは当寺なり、高石寺と号す、開山譽心は天正十六年、開基加々美才兵衛は寛永六年没す・・・・」として、江戸時代初期の創建としていますが、この寺には平安時代造立の「阿弥陀如来像(市重要歴史文化財)」があり、この寺の創建、歴史に謎を残しています。

 新百合ヶ丘駅北口、世田谷町田線との交差点を北へ向かう道(現新百合山手大通り)を昔は笹子農道と呼び、その奥詰まった右手の丘にかつて「笹合稲荷」と称する小祠がありましたが、これについて次のような伝承があります。

 治承元年(1177)後白河法皇の意を受けて、驕る平家打倒の運動がおこります。世にいう鹿ヶ谷の密議ですが、清盛はその首謀者を死罪、流罪、法皇を幽閉してしまい、身の危険を感じた法皇の第二皇女笹子姫は、従者4人と共に武蔵国都筑郡古沢荘に落ち延び、後に万福寺笹合稲荷の地に従者と隠棲しました。従者の姓は、田中・高橋・木下・鈴木と言われ、今でもその末裔とされる旧家が残されています。

 この法雲寺の阿弥陀如来像は、寺伝によると笹子姫が東国に隠棲の際、父後白河法皇から授かった像といわれます。市文化財図鑑には高さ75・5cm、木造寄木造の座像で漆箔が施されており、その特徴は穏やかな表情で、平安時代中期京都に多かった「定朝様」と呼ぶ仏像彫刻様式を伝え、市内に残る平安期の仏像の中で「最も都風を偲ばせる仏像」と紹介されています。

 万福寺の地に落ち着いた笹子姫は、その消息を父後白河法皇に知らせたことでしょう。法皇は娘の無事息災を願って日頃信仰の定朝様の仏像を遠く東国に送ったとしても不思議ではありません。そこで笹子姫は万福寺からほど近い高石の権現の森に堂宇を建て、その仏像を安置したのが現在の法雲寺とする逸話です。笹合稲荷の地は法雲寺の裏鬼門にあたり、そこには姫の従者の墓地があります。笹合稲荷のご神体は「キツネの上に乗る笹子姫像」で毎年初午には明治の頃は里人が集まり、法雲寺の僧により供養が行われていたそうです。

 後白河法皇の正史には笹子姫の名はありません。だがそれは朝廷や動乱の世のこと、笹子姫の存在を否定するものではありません。しかし都を遠く離れた都筑の山里に法皇の姫が?、と思うのも正直なところですが、それでは法雲寺のこの阿弥陀如来座像はだれが造立したのでしょうか。

 この頃(保元元年1156)この地は武蔵の武士団横山党古沢氏の根拠地だったと言われます。続いて前橋小山田氏の勢力下、小沢郷となるわけですが、ちょうどその頃、岡上東光院に兜跋毘沙門天立像が造立されています。これは作風から在地豪族や農民により造られたものと言われ、そうすると法雲寺の阿弥陀様も古沢氏か小山田氏によるものと考えたくなりますが、一方この頃この地は藤沢摂関家の領だったといわれ、朝廷の力は衰えても権威は衰えず、笹子姫はこれを頼ったかと勝手に推測され、何よりも定朝様という都の作風が笹子姫伝承にロマンを与え、法雲寺の阿弥陀如来像は謎を残していくのではないでしょうか。なお、務めを果たした笹合稲荷の祠堂は、現在新百合山手の大通り割烹ビル「笹合」に移され大切に保存されています。

 参考資料:「川崎市史」「川崎市文化財図鑑」「万福寺ふるさとの歩み」「生田郷土誌」

(文:小島一也)
 

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