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麻生区 コラム柿生文化を読む

公開日:2015.06.12

柿生郷土史料館タイアップ企画
柿生文化を読む
第61回天保の飢饉王禅寺村はその時どうした(3)前編

  • 「天明飢饉之図」(江戸時代中期)

 今回は、天保7年(1836)9月以降の王禅寺村の様子を見てみましょう。志村家文書の天保7年9月の「米穀御調に付き書上帳」には「当年稀(まれ)なる凶作のため米穀が高値となり貧民が大変困窮している。したがって家族の十月までの食料となる米、支払う手当などを差し引き、余りの米穀を調べ、余剰の米穀は江戸や隣村の米屋に売り払うように」という代官所からの通達があり、それを請けて名主が村人に同内容の指示を出しています。これは江戸周辺地域で流通している米の量がかなり不足していたことを物語っています。  このような中、11月には村人が代官所からの通達に違反して次のような事をしたと書かれています。「今年の夏以来、親類の者に米穀を用意するよう頼まれ、米を糶(せり)買い(米を手に入れるため、高い値段を付けて売り手から購入すること。米価高騰の原因になる)した事が発覚、米穀の売買を禁止された」とあります。ところが、さらに村人の中には「隣村に入り込み、素人の家に入り米を糶買いしたことが判明し、関東御取締御出役(八州廻)からもきついおしかりを受けた者がいた」とあります。



 当時、同じような事で神奈川宿の紺屋が召し捕らえられ、更に近くの村の百姓富蔵も取り調べを請け、川崎宿まで送られた事などが分かっています。王禅寺村では役所に、事件の関係者と名主・年寄りが連名で、今後このようなことが二度とないようにするとの、お詫びの一札(証書)を出しています。名主もずいぶん苦労したようです。【次号へ続く】



 文:板倉 史料:志村家文書「差上申御請証文之事 天保7年7月」、小島家文書「小島日記 天保7年7月」

 

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