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麻生区版 公開:2016年12月9日 エリアトップへ

柿生郷土史料館タイアップ企画 柿生文化を読む 第92回 シリーズ「麻生の歴史を探る」北条氏関東支配(3)〜小沢ヶ原 後編

公開:2016年12月9日

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【前回から続く】

 これらの印判状は早雲、氏綱の時代から始まりますが、麻生に関わるものを見てみますと、まず天文15年(1546)北条氏康が小沢郷を垪和左衛門太夫(はがさえもんのたいふ)なる者に与えた判物があり、「武州小沢之弐百壱拾八貫文之地、進置候、恐々謹言、天文十五年七月九日 垪和左衛門太夫殿 氏康(花押)」と記されています。これはこの年4月、前稿(小沢城)の扇谷上杉家を河越城に滅ぼした垪和氏の勲功に報いるものだったと思われます。稲城市資料によると、この垪和左衛門太夫幼名又太郎は小沢城主を務めていたと記され、後に伊予守と号しました。武田・北条・今川家三つ巴の抗争の中で、永禄十二年(1569)、北条氏は駿河の今川氏と和した際、この伊予守に対し「興国寺城主に定置候 〜略〜 仍状如件。永禄十二年八月、垪和氏伊予守殿、氏政(花押)」の判物を出しています。興国寺城とは早雲が得た最初の城で、小沢郷を領した垪和氏は相当の人物だったことが分かります。

 ついで元亀三年(1572)北条氏政は岡部和泉入道なる者に麻生郷を与える判物を出しており、そこには「為当意堪認分、小机筋麻生郷進之候、仍状如件、元亀三年三月十六日、岡部和泉入道殿 氏政(花押)」と記されています。堪認分とは客分扱いのことです。この岡部和泉入道は元今川家の家臣でした。元亀三年というと武田信玄が北条氏と和睦し上洛の年で、永禄十二年(1569)今川氏は滅亡しており、その家臣を客分として扱った戦国大名の複雑さを感じさせられます。ただそこには貫高(知行高)の記載がなく、この時期発令された「小田原役帳」には「麻生の貫高八十二貫五百文、領主布施蔵人佐」とありますので、その年貢の一部が小田原で支給されていたのでしょうか。なお、麻生には岡部入道に関する伝承はなく、岡部を苗字とする在家が一戸あり、布施氏についての由縁は全くないようです。

参考文献:「川崎市史」「稲城市史」「戦国大名北条氏とその文書」

文:小島一也(遺稿)
 

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