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麻生区版 公開:2017年3月24日 エリアトップへ

柿生郷土史料館タイアップ企画 柿生文化を読む 第98回 シリーズ「麻生の歴史を探る」北条氏関東支配(6)〜北条氏滅亡 後編

公開:2017年3月24日

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 【前回から続く】謙信、信玄が死に、織田信長が没し、豊臣秀吉の天下統一小田原城攻めは天正17年(1589)11月に始まっています。それより前の天正13年、小田原城主氏直は秀吉の来攻を予想し、相模、武蔵各郷村の15歳から70歳の男子に年20日間の軍事訓練を命じています。ついで、天正15年には、虎の印判状で五ヶ条からなる規定を設け、各郷村の領主、代官に戦闘要員を出すよう割り当てを指示しますが、それはいずれも北条氏にとって成果あるものではありませんでした。

 私の家には天正18年(1590)4月、豊臣秀吉が小田原攻めの際、相模、武蔵の郷村に出された「禁制」と称する朱印状が保存されています。これは秀吉が配下の軍勢(兵士)に、「村人等に、乱暴狼藉、放火、不当行動を禁じ、違反の者は厳罰に処す」としたもので、これと同じものは、各郷村の有力地侍、寺社に出されており(市史)、秀吉勢は小田原城を囲みながら、4月の頃この地方は秀吉によって宣撫されていたことがわかります。小田原防衛の拠点とされた小机城を主城とする都筑、橘樹の支城で戦があったという記録はありません。三輪の沢山城に米が運び込まれ、麻生の亀井城はその遺構から秀吉軍の来攻に備えての兵站基地だったとされますが確かなものではなく、ただ、王禅寺白山谷(現白山神社付近)に北条家の家臣吉垣将監重国という者が陣屋を構え、徳川家康勢と戦って討ち死にしたとの伝承もありますので多少の戦禍はこの地方も被ったものと思われます。小田原城落城は天正18年7月最後まで抗戦した八王子城主氏輝は兄氏政とともに切腹。当主氏直(小田原城主)は岳父家康の助命で高野山に入りますが、そこには小机城主氏光(叔父=氏政弟)の姿があったようです。

 北条の代、相模・武蔵の氏康・氏政の徳政も四公六民も束の間のこと、箱根湯本早雲寺の五代の墓は人に知られますが、小田原駅前商店街の一角には、切腹した悲劇の武将、氏政・氏照の墓が町民により人知れず残されているそうです。
 

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