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麻生区版 公開:2018年6月29日 エリアトップへ

柿生郷土史料館タイアップ企画 柿生文化を読む 第127回 シリーズ「麻生の歴史を探る」鷹狩り御用、助郷 前編

公開:2018年6月29日

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 鷹狩り御用とは、将軍や大名が催す鷹狩り(鷹を使って野鳥を獲る)に指定された村々が、狩場の調達や、宿の提供、勢子の動員などを課せられた法度で、徳川家康、秀忠、家光は特にこれを好み、遊興だけではなく軍事訓練や民情視察、それに江戸近郊の直参旗本の知行地を外様大名の狩場に与えることによって、獲物の交換・親睦と、幕府の基礎固めの外交施策でもあったようです。

 この麻生での鷹狩りの伝承は今も残っています。上麻生仲村の鈴木家には、この地方が越前前田家の「鷹場」であったことを示す文書があり、鈴木家は屋号を「かさ」と呼び、村の名主を司った家で、家屋内には鷹匠が泊まる部屋が2室あったと聞いています。鷹場の村の名主の役目は、役人・鷹匠の接待、鷹の獲物(鴨・鶉・雲雀など)を見張る鷹番所の運営、人夫・勢子の調達で、この鷹場の令は寛永13年(1636)公布されますが、前田家の鷹場だけでも148ヶ村に及びました。鷹番所には毎年8月から翌年4月まで百姓2人が交代で詰めていたといい、寛文7年(1667)の記録では勢子1千人が動員され、板橋を架けたり、獲物の餌を上納させられたり、農家には甚だ苦痛なものでありました。

 貞享4年(1687)、五代将軍綱吉は「生類憐みの令」を公布、この鷹狩りの令は終息したかに思えますが上麻生村井上甚七家には、元禄6年(1693)、前田家から賜った「拝領鷹場返上書留書」(市民ミュージアム蔵)があり、これはこの井上家も鈴木家と同じく鳥見役を務め、お鷹場屋2棟を持ったと言われる名主役で、記録によると甚七は前田家の依頼を受け、同じ鳥見役の溝口村彦兵衛などと返上について談合したとされています。

 こうして幕府の鷹場制度は終わり農民の負担は軽減されますが、その後も大名や旗本の嗜好で鷹狩りは幕末まで続き、ただ王禅寺村だけは公儀鷹場はなく、鷹狩りはなかったそうです。

【後編に続く】
 

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