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柿生文化を読む

公開:2018年7月6日

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片平村入用帳(川崎市史より抜粋、加筆)
片平村入用帳(川崎市史より抜粋、加筆)

 【前編から続く】この鷹狩り御用と並んで農民を苦しめたのが「助郷」の制度で、江戸が都市化して街道が整備され、人馬の往来が激しくなって宿駅が設けられ、そこには伝馬(人・馬)の用意がされます。特に大名の参勤交代などには需要に追い付けず、村々に人馬の供出を義務付けたのが助郷制度で、本市の場合、元和9年(1623)、川崎宿が東海道の宿駅となりますが、元禄7年(1694)には近郷38ヶ村が助郷村と指定され、文化3年(1806)、川崎宿への出役は年3万人と定められ、天保6年(1835)には、48500人となり大変な負担になっています(川崎市史)。

 麻生周辺の助郷先は甲州街道布田宿(府中)でした。此処へは麻生からは、菅、矢野口で多摩川を渡っての出役で、甲州街道府中宿に連なる宿駅ですが、東海道とは異なり伝馬数も少なく、当初布田宿5ヶ村が助郷とされていたものが、その後、街道の機能が増し、幕府は宝暦12年(1762)に「甲州街道中、五宿助郷帖」を作成しており、それによると現麻生区内では、岡上・王禅寺・金程村を除く近郷10ヶ村が布田宿助郷村に指定されています(川崎市史)。なお、助郷には脇助郷という制度があり、金程村は川崎宿の脇助郷だったともいわれ、私文書の中には東海道保土ヶ谷宿に助郷に出た(賃稼ぎ)との記録があります(小泉家文書)。

 この助郷の負担は、村の石高に応じて課せられていました。したがって村の財政によって直接農民に労務を求める村や、賃金で人夫(雲助)を雇う村があったようです。左記の表は片平の安藤資次家に残されている片平村の「入用帳」ですが、助郷役が如何に村の財政に影響を与えていたかが判ります。文化元年(1804)、村全体の入用額の約72%が助郷関係で占め、20年後の文政8年(1825)には81%に及んでいます。これは片平村だけに限ったものではなく、農民にとっては年貢以外の負担で、このことは天保の大飢饉(1833)から江戸幕府終焉の幕末となっていきます。
 

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