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麻生区版 公開:2018年8月24日 エリアトップへ

柿生文化を読む 第132回 シリーズ「麻生の歴史を探る」黒川炭 後編

公開:2018年8月24日

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【前編から続く】

 それともう一つ、良質の炭を焼くには窯の構造に加え、炭焼技術がありました。この地方の炭の原料の薪は、橡、楢の樹が多く、これ等は伐って1カ月後に焼くのが良いとされ、窯の中への熱の通りを良くするため薪を縦に入れ、熱源を得るため燃やす粗朶の量や配置、空気の調整が薪を炭素化させ、窯から出る煙の色が黒から白色、薄青い煙になった時、入口や煙の出口をふさぎ、そのタイミングが炭焼きのコツとされました。通常、窯に火を付けて、止めるまで2日、薪が窯の中で炭になるまで6日間を要したといいます。焼きあがった炭は、四貫目(15kg)ずつ、茅で縦に編んだ炭俵に入れられ、仲買人等によって、布田道、津久井道を布田宿(調布)、江戸へと出荷されています。

 この黒川の炭焼窯は近郊の村々に構築されていきますが、その生産高は弘化2年(1845)王禅寺村の名主による村明細書には「炭を焼く者十九戸(19基)、一人平均720俵〜800俵を生産して江戸に出荷し、一人8両の現金収入を得、村では合計152両の収入があったと記されています。時代はくだって明治6年(1873)生田五反田村では年間1万1000俵の生産をしており(高津田村家文書)、黒川村地誌(市史料)には「明治21年、黒川村戸数69戸、炭七千貫」と記されており、炭俵にすると1700俵もの炭が東京に出荷され大変な副収入だったことが判ります。

 この黒川炭の歴史は大正、昭和年代に続きますが、明治の頃の東京の炭の価格は10貫目あたりの平均47・2銭。米1俵(16貫)2円50銭。それが大正10年(1921)炭10貫の価格は3円80銭、米価は1俵14円20銭(黒川炭研究・広川英彦氏)だったと言われます。一方で多摩川炭とも呼ぶ粗悪品が出回ったこともあり、大正7年(1918)神奈川県は、改良窯の構築を1基10円の奨励金を出し普及させています。

 しかし昭和に入り木炭の統制や、庶民の生活の変化、化学燃料の普及は木炭を過去のものとしていきます。江戸時代から200年余、近郊近在でただ一人黒川炭を焼き続けた市川祐さんが最後の窯に火を入れたのは昭和60年4月のことでした。

参考資料:「川崎市史」「ふるさとは語る(柿生郷土史刊行会)」「黒川炭と庶民の歴史(広川英彦)」「くろかわ(はるひ野開発と地域の記録)」「新編武蔵風土記稿」
 

柿生における木炭の生産高
柿生における木炭の生産高

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