柿生文化を読む 第163回 シリーズ「麻生の歴史を探る」榛名山(はるなさん)信仰〜風祭り〜 後編 文:小島一也(遺稿)
【前編から続く】
代参人が榛名山から戴いてくるものには、【1】御立札(天下泰平、構内安全、繁栄祈願、講元1枚)【2】大札(家内安全、五穀豊作、開運祈願、全戸)【3】嵐札(台風晩霜除け、戸外に立てる、全戸)【4】筒粥札(作物豊凶の占い札、希望者)で、筒粥(ツツカユ)とは毎年、榛名神社では正月行事(1月15日)に神事として、粥を焚き、竹筒の中の米粒の量によって、その年の作物の作柄を占うものです。代参人は帰宅すると講員を代表の家に集め、榛名山御神体軸を掲げ、講宴を催し、お札を配り次回代表者を決めますが、榛名山への御供米、御師祈祷札、お札料、代参者交通費を含め、年間1軒当たりの講金(会費)は、年代により異なりますが、小麦1升、大豆1升、玄米1升だったと記録されています。
また、この榛名山信仰は川崎市史によると、現川崎宮前区の梶ヶ谷―野川―馬絹の村にも「雨乞い」の講があったようです。梶ヶ谷村には、嘉永5年(1852)の「三峰山、榛名山講中議定書」(田村家文書)があり、代参や費用のルールが示されていますが、これによると、1回の代参の費用が1両1分2朱と銭648文、この費用は「1軒に付1ヶ年に、米2升、小麦2升、大豆2升充取集め申すべく候事」と記され、15年に1度その家から参詣者が出る仕組みになっています。
この榛名山信仰がいつ頃から起きたかは定かではありませんが、宝永4年(1707)の富士山の大噴火、とりわけ、天明(1783、浅間山噴火)年間から天保(1831〜天災、大飢饉)の頃が、最も盛んだったと思われますが、平穏、豊年の年月もあり、榛名山は上毛三山(赤城、妙義、榛名)に加え、伊香保温泉を持つ、今でいう観光地で、村々の榛名講は、勿論、信仰のためのものでありますが、講の組織や講員を見ると、代参人は観光無尽の当選人とも考えられ、榛名講の一面には、働く農民の娯楽的要素もあったのではないでしょうか。
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