柿生文化を読む シリーズ「鶴見川流域の中世」中世人の生活の舞台としての鶴見川【6】 「鶴見寺尾絵図2」【2】文:中西望介(戦国史研究会会員・都筑橘樹研究会員)
鎌倉幕府滅亡後、全国で後醍醐天皇が親政する建武政権への不満を持つ勢力の蜂起が相次いだ。その中で建武2年(1335)には北条高時の遺児時行が諏訪頼重に擁せられて信濃に挙兵し、井出沢(東京都町田市)の合戦で足利直義軍を破り7月25日には鎌倉を占領しているが、これを中先代の乱という。その前日の7月24日、常陸国(茨城県)の佐竹氏は北条時行軍の一派と鶴見辺で合戦している。この2度目の鶴見合戦では佐竹貞義の子息義直や一族の稲木義武・真崎義景が討ち死にしている(足利尊氏御教書案写)。また、建武4年2月16日の塙右京大夫宛ての足利尊氏御教書写でも「鶴見原合戦致忠節之條 尤以神妙 向後彌可抽戰功之状如件」とあり鶴見河原での合戦が記されている。
足利尊氏・同直義兄弟が対立して室町幕府が分裂した観応の擾乱が起きると、その間隙を縫って南朝方の新田義興(義貞の子息)が上野国(群馬県)に挙兵して関戸に迫った。正平7年(1352)これに合流するために水野致秋は鶴見宿地から関戸へ馳せ参じている。
このように鎌倉幕府滅亡の合戦から観応の擾乱にかけて鶴見では度々合戦が行われた。鶴見は鎌倉街道下道が通り鶴見宿・鶴見市場がある交通の要衝だったからである。
応安4年(1371)武蔵守護代大石能重は建長寺正統庵領鶴見郷新市での押買以下の濫妨狼藉を禁じる禁制を出している。応安4年当時は鶴見郷が建長寺の塔頭正統庵領であることがわかる。押買とは、買い手の側が強引に安値で商品を買い取ることをいう。市場や宿では人や物や情報が交差する場であるとともに喧嘩・口論や押買などが横行する喧噪の巷であった。合戦は人や物や情報が交差する場所で行われている。無人の荒野で行われたわけではない。「鶴見寺尾絵図」には鎌倉街道下道沿い、また鶴見川に架かる橋詰に集落が描かれており、とくに橋詰の集落が当時の鶴見宿と推定される。
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