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麻生区版 公開:2021年4月16日 エリアトップへ

柿生文化を読む シリーズ「鶴見川流域の中世」源平の争乱を生き抜いた武士 小山田有重【1】 文:中西望介(戦国史研究会会員・都筑橘樹研究会員)

公開:2021年4月16日

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 小山田別当有重は鶴見川源流部の小山田庄(保)を本拠として、治承・寿永の内乱(源平の争乱)を生き抜いた武士である。有重は源家の家人から平家の家人になり、さらに源頼朝と主従関係を結び御家人になっている。有重の動向を『平家物語』や『吾妻鏡』等から読むと、激動期を生き抜いた老練でしたたかな姿が浮かび上がってくる。

 有重は『尊卑分脈』によると祖父の重綱は秩父権守(出羽権守)を称し、父の重弘は太郎大夫を称した秩父平氏の嫡流の出身である。重綱は武蔵国留守所惣検校職と呼ばれる国司に次ぐ地位に就いて、在庁官人を指揮し国務を掌握した。同職は重綱の嫡流が代々世襲しているので、秩父平氏はこうした権限を梃子にして国内に勢力を広げたのであろう。その一族の畠山・河越・江戸・豊島・葛西・渋谷・中山氏等は一郡から数郷・荘園規模の勢力を持って、武蔵国で最大の武士団を形成した。なかでも畠山・小山田は有勢な武士団であると『源平盛衰記』は記している。

 有重は小山田別当と称しているが、別当とは勅旨牧の管理者である牧別当であることは多くの研究者が指摘している。馬は戦争や物資の輸送に不可欠の存在だった。小山田庄(保)は由比牧・小野牧に連続する馬牧の適地であり、武蔵国府の南に位置して、流通の大動脈である鎌倉街道上道が南北に貫通している。その子息たちは、小山田五郎行重は小山田庄(保)を受け継ぎ、稲毛三郎重成は鎌倉中道が通る摂関家領稲毛庄(川崎市中原区・高津区)に、榛谷四郎重朝は鎌倉上道が貫通する伊勢神宮領榛谷御厨(横浜市旭区二俣川付近)にそれぞれ進出している。小山田一族は武蔵府中に通じる幾筋もの幹線道路を押さえる様に、多摩川・鶴見川・帷子川流域に勢力をのばしている。(つづく)
 

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