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麻生区版 公開:2021年6月18日 エリアトップへ

柿生文化を読む シリーズ「鶴見川流域の中世」高名の馬飼 都筑経家とその一族【2】文:中西望介(戦国史研究会会員・都筑橘樹研究会員)

公開:2021年6月18日

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「調馬図巻」埼玉県立博物館図録『武蔵武士』より転載
「調馬図巻」埼玉県立博物館図録『武蔵武士』より転載

 都筑氏に関してはこの他に『源平盛衰記』小坪合戦の事には畠山重忠の郎等である綴(つづき)太郎が見え、『平家物語』巻第九坂落には都筑党が記されているが都筑経家との関係は判然としない。都筑氏はどの武士団の出身であろうか。これまでの研究では小野姓横山党と利仁流藤原氏があげられる。『吾妻鏡』には都筑経家は出てこないが、その代わりに都筑経景が登場する。経家と経景は「経」の字が共通であることから一族であろう。小野氏系図横山(『群書類従』巻第166)に続(つづき)氏があり、これを根拠に都筑経景を由比牧・小野牧に関わった小野姓横山党とする説が有力視されている。しかし、『吾妻鏡』を読むと都筑氏には別の一面があることに気づかされる。

 『吾妻鏡』には都筑右衛門尉経景・都筑左近将監・都筑九郎が登場する。都筑左近将監は暦仁元年(1238)2月17日に将軍藤原頼経上洛の先陣随兵として8番目に都筑経景と共に隊列を組んでいることから近親者であろう。都筑九郎は建長四年(1251)に記されているが、名前や年代から推測すると経景の子息であろう。ここで注目したいのは都筑経景である。経景は『吾妻鏡』には九郎経景・右衛門尉経景と称し、将軍藤原頼経の和歌会に和歌の上手な近臣として幾度も登場している。経景の記事からは京都の風雅な文化に馴染む武者の姿が浮かび上がってくる。建長2年(1250)には都筑右衛門跡とあるので、これ以前に死去したものと思われる。さて、「高名の馬乗・馬飼」と「風雅な和歌の上手」という異なる面を備えた都筑氏を、どの様に理解すればよいのだろうか。 (つづく)
 

都筑氏関係系図『尊卑分脈』より
都筑氏関係系図『尊卑分脈』より

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