柿生文化を読む シリーズ「鶴見川流域の中世」賀勢庄の故地「加瀬」と鎌倉御家人加世氏について【1】文:中西望介(戦国史研究会会員・都筑橘樹研究会員)
鶴見川下流の左岸には南加瀬・北加瀬・西加瀬など加瀬の付いた地名が、独立台地の加瀬山を取り囲むように分布している。この地域に賀勢庄と呼ばれる天皇家領の庄園が存在したことが、貞応三年(1224)から仁治三年(1242)までの間に作成された、後白河法皇の娘の宣陽門院覲子内親王の所領目録(「島田文書」)に見える。宣陽門院領は後白河法皇から譲られた長講堂領や上西門院(後白河天皇の姉で准母)領等を加えた膨大な庄園群であるが、同庄の史料は先にあげた所領目録が唯一である。
古代には加瀬山の西斜面に築かれた白山古墳(推定全長72〜90m)と矢上川を挟んで観音松古墳(全長87m)の二大前方後円墳が造られ、その後多くの円墳からなる加瀬古墳群や矢上古墳などが造られた古墳時代から開発が進んだ地域であった。中世前期に存在した賀勢庄はこうした地理的・歴史的条件を背景にして成立したと考えられる。
中世には中世墓や経塚が数多く造営されている事でも注目されている。白山古墳の南東斜面から蔵骨器に使われた渥美焼の「秋草紋壺」(国宝)が出土しているが、同壺出土地と隣接した「越路遺跡」から発見された蔵骨器の白磁四耳壺は、鎌倉で出土するものよりも古く12世紀後半の作成とされている。こうした陶磁器を遠隔地から入手して蔵骨器に使い墳墓に埋納することの出来るのは、賀勢庄の成立に関わった有力者一族であろう。加瀬山の南麓に館を構え、そのかたわらに一族の墳墓を造営する豪族の姿が想定される。
(つづく)
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