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麻生区版 公開:2021年11月12日 エリアトップへ

柿生文化を読む シリーズ「鶴見川流域の中世」賀勢庄の故地「加瀬」と鎌倉御家人加世氏について【2】文:中西望介(戦国史研究会会員・都筑橘樹研究会員)

公開:2021年11月12日

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図版 大正6年測量5万分の1『東京西南部』秋草紋壺出土地 越路遺跡
図版 大正6年測量5万分の1『東京西南部』秋草紋壺出土地 越路遺跡

 加世を名字とする武士が『吾妻鏡』や古文書・墨書木札等に登場するので見てみよう。加世次郎宗季は『吾妻鏡』建久元年(1190)十一月七日条に、源頼朝上洛の随兵として先陣の随兵36番に塩屋惟守や山田四郎と隊列を組み、建久六年(1195)三月十日には源頼朝の東大寺供養の後陣の随兵として、熊谷直家や志賀七郎と隊列を組んでいる。加世次郎は将軍と主従関係を結んだれっきとした御家人である。しかし、つぎに見える加世次郎は畠山重忠に戦いを挑む安達景盛に率いられた主従7騎の中にある(『吾妻鏡』元久二年(1205)六月二十二日条)。従者(被官)と記されているのは野田与一・加世次郎・飽間太郎・鶴見平太・玉村太郎・与藤次である。加世次郎がどの様な経緯で安達氏の被官になったのかは不明である。飽間太郎と玉村太郎は安達景盛が守護職を持つ上野国の武士である。つぎの和田合戦と承久の乱は加世氏の命運を大きく左右した事件であった。

 建保元年(1200)の和田合戦では和田義盛に与して討たれた御家人達の中に「かせの(加世)弥二郎」がある(『吾妻鏡』)。弥二郎の所領は幕府に没収され没落したであろう。

 承久の乱(1221)における宇治橋合戦は2日間に渡って激戦が繰り広げられ、幕府方の武士にも多くの死傷者を出した。加世左近将監と加世弥二郎は六月十四日の合戦で負傷し、その後に弥二郎は死亡している(『吾妻鏡』)。先に和田義盛に与して討たれた武士も加世弥次郎であった。なぜ重複しているのか疑問が残る。(つづく)

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