福岡県出身で大船渡市職員となって移住し、もうすぐ8年になる。5年間、災害復興局に勤務後、現在は約2年前に創設された市民協働準備室に着任。公民館を拠点に時代に合った取り組みでより良い地域となるよう住民と協議を進める。職員として地域振興に取り組む日々だが、大船渡市との接点は震災直後にイベントの手伝いで訪問したのが契機だった。
大学3年の終わりに震災が起こり、4年の夏、被災地で何かできないかと、大船渡市の七夕まつりの手伝いで訪問する友人に付いていく形で現地へ。1週間ほど滞在したが、同じ市内でも被災しなかった人がいることに驚くとともに、住民はもとより、故郷として帰省する若者らと実際に過ごすことで日常の姿が垣間見えた。TVで見たのとは違う感情を抱き、しっかりとピントがあったように思えた。同時に「地元が被災したら」と不安を覚えた。それは被災地を自身で受け止めた証でもあった。
短い時間とはいえ、被災地の現実を知ったからには「被災地のために何かしたい」という思いが沸々と芽生えた。福岡に帰れば、もう二度と大船渡に行くことはないと思い、「自分らしい選択は何か」を必死に考えた。そこでたどり着いたのが「これから先の大船渡を見守りたい」という願望。大船渡に移住すると一大決心した。
思い立ってすぐに、8月の職員採用試験に滑り込みで申し込むと見事合格。ところが両親は大反対。縁遠い東北の地に娘を一人で置くのを拒むのは当然だった。移住の道はついえかけたが、自分らしく生きることへの強い思いを伝え説得。両親は根負けし、渋々応じた。それでも職場の配慮で盆と正月に加え、家族の用事があれば帰省を許され、「親も近く思ってくれているのでは」と感じている。
大船渡は同郷の人が多いと感じる中で、他県出身者として地域づくりにかかわることの自身の価値を大切にする。良い意味で同化せず、多様な価値観を持って職務にあたる。それが自分を生かすことだと肝に据える。昨年は地元の男性と結婚。公私ともに充実した毎日を送る。
復興は節目も課題残す
来年度は市復興計画の最終年度。仮設撤去、高台移転などの計画が果たされ、復興の一つの節目を迎えたと実感する。「(他県出身者という点で)同じ輪で見ることはできないが、頑張ったと思う」。その上で、「復興だけではどうにもならない」とも。観光の面などで選ばれる町になる必要があるとし、「今が頑張りどころ」と意気込む。震災については「風化は仕方ないが、教訓とするべき」と強調。「震災の経験を次どこかで被災した人たちのために生かさないといけない」。
復興を見届けようと移住を決めた大船渡の地で、家族とともに、さらに先まで見守る覚悟だ。
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