さがみはら中央区 コラム
公開日:2025.11.27
学生編集室レポート
草に覆われた戦争遺構
東海大学3年 石川流也
こんにちは!神奈川県を中心に学生が政治や地域を取材する「政治の村Students編集室」(タウンニュースが支援)の石川流也です。今年は戦後80年ということで、生まれ育った相模原にある戦争の記憶、戦争遺構を調べました。戦争遺構とは、戦争の痕跡を後世へ残すために保存されている場所やもののことです。
この記事では、「相模陸軍造兵廠」の調査結果をもとに、遺構のある意義や遺構が伝える意味について皆さんと深めていければと思います。
相模陸軍造兵廠
現在、JR相模原駅の北東に位置する「米軍相模総合補給廠」は、かつて「旧日本陸軍造兵廠」として兵器の製造や修理を行っていたとされています。JR矢部駅そばの上矢部公園内には記念碑があり、その裏に造兵廠の歴史が記されています。
それによると、1937(昭和12)年に「陸軍東京工廠相模兵器製造所」として設立され、38(昭和13)年より、戦車・牽引車・砲弾の生産を開始したようです。その後、40(昭和15)年に「相模陸軍造兵廠」へと昇格したとされています。記念碑は86(昭和61)年に建設されましたが、非常にきれいな状態で残されており、公園内でもひときわ目立つ存在でした。
しかし、相模原で暮らしてきた私はこれまで記念碑の存在を知りませんでした。また、公園付近の人通りは少なく、閑散としている雰囲気が見受けられました。市内で暮らす人にもあまり認知されていないのが現状ではないでしょうか。かつて相模原で武器の製造を行っていたという歴史と遺構の存在を我々若者が認知していかなければ、残された遺構はただ廃れていってしまうと、危機感を抱きました。
造兵廠へと続く線路の跡
上矢部公園を北上した先、団地などが佇む土地には戦時中の輸送に使われていた線路の跡が見られました。大部分が米軍に接収されてしまった中で、当時使われていたものとして見ることができる貴重な遺構でした。しかし、現在は草が生い茂り、一見すると線路には見えないほど手入れなどが行われていないように感じました。立ち入るにも立ち入りにくい、綺麗に現存している中で非常にもったいないといった印象でした。
この先も残していくために
イベントなどの特別な場合を除き、「米軍相模総合補給廠」へ入ることは原則禁止されているため、現在見ることができる部分は限られてしまっています。しかし、その周辺にも戦時中の形のまま残されているものもあるのだと明らかになりました。
私が子どもの時、残された遺構の存在や戦時中の相模原について、学校で詳しく取り扱われることはありませんでした。私たち若い世代が歴史を知ること、遺構を後の世代へ残していくための手入れ、保存方法を検討していくことが次の世代へ残していくためにするべきことであると強く感じさせられました。
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