徒然想 連載271 花のお寺 常泉寺 住職・青蔭文雄
十月は、筌(ふせご)に因りて魚を求め、魚を得て筌を忘る。言に因りて意を求め、意を得て言を忘る、です。
出典は、中国、唐、大通神秀(だいつうじんしゅう)撰、「観心(かんじん)論(ろん)」。
意は、伏籠(ふせご)を使って魚を獲ろうとし、魚が手に入ったなら、もはや伏籠の事は忘れる。そのように言葉によって意味を尋ね、ひとたび意味を理解したならば、もはや言葉に左右されないということです。
現代を生きる私達の日常生活は、目的と手段の織りなす綾のようです。目的を果たすためには手段がなければならず、手段があってこそ目的も達成されます。ですが、手段はあくまでも手段であって、目的そのものではない。ところが、時々目的と手段とを同じものとして扱うことがあります。「月をさす指」や「川を渡る舟」などの喩えがあります。月をさす、や川を渡ることが目的であって、その目的が達成されたなら、手段としての指や舟は捨て去ってもよいのです。
仏教には、一口に八万四千の法門、五千余巻の経典と言われています。古来より数多の多彩な教え、数多の経文が伝えられています。この示す真意が正しく伝えられ、私達の生活に生かされたなら、それらの経文も無用の長物となるはずですが、そうならないのが現実です。
桃蹊庵主 合掌
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