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大和 コラム

公開日:2025.12.19

徒然想 連載333
花のお寺 常泉寺 住職・青蔭文雄

 様々な事案があった年でしたが、早いもので最後の月となりました。今回は、相好を以て如来と為すには非ず、相も無く、相を離れて、寂滅の法なればなり、です。

 出典は、インド、大乗経典『華厳経』。

 意は、姿や形をもって仏を求めてはならない。私たちがみている姿、形は真の仏ではない。慎の仏とは、悟りそのものである。よって悟りを見るものが真の仏を見ると、いうことです。

 仏陀になった釈尊は外見一般の人間と変わった姿だったでしょうか。決してそうではなかったと思う。変わったところと言えば、崇高な心のあり方ではないでしょうか。

 仏教の実践思想は悟りを開くことから考えると、物事の一切を空と見て、すべてのものに執着心をもたない中道の生き方、考え方をする心を得ることを目標としている。心の変化だから、外から見てはわからない。

 悟りは心のあり方そのものですので、仏は姿や形に求めても捉えることはできないということです。悟りを得て初めて仏そのものを見ることができるのだと、説かれています。

 読者各位の年内残る日々の無病息災と来る年が安寧であることをお祈り申し上げます。

    桃蹊庵主 合掌

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