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藤沢 社会

公開日:2025.06.27

戦後80年 語り継ぐ記憶
「ただ生きることに必死」
沼上登さん

  • 幼い頃の記憶を辿る沼上さん

 「あれ、さっき寝たばかりなのに、もう朝が来た」。1945年7月16日真夜中、平塚市を襲ったのは132機のB29。平塚市出身で、現在は藤沢市内で工務店を営む沼上登さん(85)は、生きるため必死に逃げ惑った夜を回顧する--。

 平塚市街の約7割が焦土し、死者227人、負傷者268人を出した平塚空襲。当時5歳だった沼上さんは、大きなサイレンの音で飛び起き、外は昼間のように明るかったという。「照明弾で街は明るく照らされ、建物は燃え火の海でした」。家族5人ばらばらで走り出し、沼上さんは、大人の陰に隠れてひたすら逃げた。「焼夷弾などとぶつかりパタパタと倒れていく人もいた。途中、深さ1m以上の川にぶつかると、たらいをかぶって逃げていた人が、それに乗せてくれて、どうにか山まで逃げ切った」。一晩明け、遺体が転がる中を無心で家路に戻ると、幸いにも家族全員無事に生き延びたが、自宅は全焼していた。「あの日の光景は今も脳裏に焼き付いてる。でも怖いとか悲しいとかそんな感情は通り越していた」。

1人で横浜の闇市へ

 それから1か月後には終戦を迎えるが、国内は深刻な食糧難に直面。沼上さん家族は、平塚市内の農家から物々交換で芋と米を仕入れ、おむすびやふかし芋にして、横浜市の闇市で売って生計を立てた。「当時の東海道線はいつも満員。子どもなら窓から乗せてもらえるからと、親は私一人で闇市に行かせた」。そんな生活が半年ほど続いた。

 小学2年生に上がる直前に父の実家があった茅ヶ崎市へ転居。ようやくバラックを離れるが、転校すると「こじきがきた」と同級生からいじめに。「栄養失調でやせ細った私と、食べ物に恵まれた農家の子とでは、まるで体格が違った。”いつか見返してやりたい”その思いが、今につながっている」。

 「なぜこんな馬鹿なことをしているのか」と、戦争に対する強い憤りを示す。「戦争は何のプラスにもならない。お互いに協調して解決すべきだ」と平和への願いを語った。

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