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藤沢 社会

公開日:2025.08.15

青春奪われた「軍国少女」
片瀬在住 芝実生子さん(96)

  • 「あの戦争を支えたのは私のような一般の庶民だった。今振り返ると異常な世の中だった」と語る芝さん

  • 1945年1月、女学生時代の芝さん=本人提供

 飢え、寒さ、緊迫、不安――。曖昧にかすんでしまった断片的な記憶。ただ、ふとした瞬間に生々しく去来する。

 芝実生子さんは1929年、片瀬に生まれた。31年に満州事変が起き、39年には第2次世界大戦が勃発。入学した片瀬小学校の壁には、額におさまった日の丸、菊の紋章と天皇・皇后の写真、御製、満州・朝鮮・樺太・台湾も赤く塗られた地図が張り出されていた。

 「模範的な軍国少女だった」。登下校時には神社で「必勝」を祈り、戦地の兵隊に慰問文や慰問袋を夢中で送り、国家のために良い行いをしたかを毎日書き込んだ。

過酷な学徒動員

 41年、乃木高等女学校(現・湘南白百合学園)に進学。同年12月に太平洋戦争が始まると、政府は次々と法令を発令。中高生も学徒動員で軍用工場などで働いた。乃木高女も例外ではなく、芝さんは4年になった44年4月から現・藤沢市民会館周辺にあった「東京螺子製作所」に配属された。

 木造の薄暗い工場内で巨大なモーターがうなる。芝さんは練習機「赤とんぼ」の翼を張るためのターンバックル(ねじ)を旋盤で作った。力のいる作業を終日行い、食事はドングリの粉で焼いたパンやポタージュのような雑炊ばかりで慢性的な栄養失調になり、下痢も続いたが、「戦地の兵隊さんは頑張っている。私も頑張らないと」と自らを奮い立たせた。

 しかし、戦況は悪化していった。45年5月、長い空襲の後、いつも避難していた新林公園の山をくり抜いた穴から外に出てみると、ただならぬ空気に嫌な予感がした。

 「西にも東にも夕焼けがあった。横浜方面の者はいるかと友人が呼び出され、泣きながら帰っていった。それきり工場には来なくなった」。横浜大空襲の日だった。

 7月には平塚も空襲に見舞われ、火が散るたびに「従兄弟の住む家にあたりませんように」と願いながら眺めた。

裸電球の灯り

 16歳の少女たちは自身に死が迫っていることを予感した。それでも「潔く死にましょう。乃木高女の生徒らしく」と淡々と交わされる会話。ただ頭の片隅には「白米のお弁当をもう一度食べたかった。キャッキャいって校庭で遊びたかった」と懐かしい思い出を再現させたくもなった。

 そのうち本土決戦に備えるよう呼びかけられ、工具を竹やりに持ち替えた。「なぎなたの訓練はしていたけれど、実際に米兵相手に突き刺す感触を想像すると、ひるんでしまうのでは」という焦りも募った。「でも悲しくはなかった。死ぬのは当たり前だったから」

 同年8月、広島・長崎の原爆投下も知らされぬまま、「新型爆弾は白いシーツをかぶれば大丈夫とでたらめな指導を受けた」。そして8月15日、玉音放送は雑音でうまく聞き取れず、寮に戻って「いよいよ本土決戦。頑張りましょうね」と級友たちと励まし合っていたところ、敗戦を知らされた。突拍子もなく訪れた事実。小さな胸には大きな欠落感とともに、「死ぬはずの私がまだ生きていて、明日も明後日もずっと死なずに生きられる」と肩の荷を下ろしたような気分になった。裸電球に被せていた黒い布を取ると、その光はやけにまぶしく感じられた。

 「私にとって平和はこの時の灯り」

 同年の暮れ、自宅の玄関にやせこけた老人が腰かけていた。「みおちゃん」。15歳年上の兄だった。全身の震えとともに涙が止まらなかった。

 その後も手足を失った傷病兵、うつろな目をした戦災孤児、「パンパン」と呼ばれる私娼と進駐軍などをまちで見かけた。戦後を如実に表す風景。「これも戦争だった」

平和築く努力

 「聖戦ではなかった。私も戦争の片棒を担いだ一人」と後悔の念が押し寄せる。世界では今なお戦火が絶えない。

 「歴史をどう捉え、未来にどう責任を取るのか。平和を築く努力が過去を教訓とする者の生き方ではないでしょうか」

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