藤沢 社会
公開日:2025.08.15
「何人殺した」父の苦悩語り継ぐ
善行在住 柳川たづ江さん(70)
「ふくちゃん、戦車に突っ込む人を誰か選んで」。「えー」。軽快にやり取りするのは、善行在住の柳川たづ江さんと相方のふくちゃん。腹話術で、日本兵だった柳川さんの父が、沖縄戦の決死攻撃で配置班長を経験した様子を演じている。
柳川さんの父、日比野勝廣さんは、19歳の時に志願兵となった。「14歳から父がつけていた日記をのぞくと、17歳頃から毎日戦争の話が記されていた。見事に軍国少年となっていく姿がありありと見られた」
日比野さんは中国で初年兵教育を受けた後、1944年8月に沖縄へ出兵。翌年4月1日に米軍が沖縄に上陸し、9日には激戦地・嘉数で戦闘。多くの戦友を亡くした。19日には体に爆弾を付けて戦車に飛び込む肉弾攻撃で1分隊12人を率いた配置班長として戦闘に加わった。
日比野さん自身も右腕と右足を負傷。十分な手当てを受けぬまま、後から迫る米軍から逃げるため、病院を求めながら次々と後退。最終的には糸数アブチラガマ内の陸軍病院に収容された。破傷風に苦しみながらも生き延びたが、戦況悪化で日本軍は病院を解散。日比野さんを含む150人余りの自力で動けない重症者が置き去りにされた。水も食料もなく次々と仲間は命を落とし、数カ月ぶりに日比野さんが日の光を浴びた8月22日にはわずか9人しか生き残っていなかった。
終戦はなかった
日本は負け、戦争は終わったはずだった。しかし、沖縄での経験は日比野さんを蝕み続けた。「いわゆるPTSD(心的外傷後ストレス障害)で、父は寝ながらよくうめき声をあげていました。真っ暗だったガマを思い出すから、いつも豆電球やテレビ、ラジオもつけたまま寝て」。年齢とともに症状は落ち着くと思っていたが、むしろ逆だった。「亡くなる直前、人差し指を1日眺め、『この指で何人殺したんだろう』と考えていた。父にとって死ぬまで戦争は終わらなかった」
そんな父の姿を見て、柳川さん姉妹は父の手記を一冊の本にまとめ、それを機に語り部となった。「父が日本兵であった以上、加害者としての側面も含めて伝える必要があった。でも、個人を責めるのは違う」。ただの歴史として語るのではなく、聞き手に"その時その場面で自分ならどうしていたか"自分のこととして一緒に考えてもらえるよう日々模索しながら語り継いでいる。
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