藤沢 社会
公開日:2025.08.15
戦後80年 語り継ぐ記憶
洋館の辿った戦中戦
善行 グリーンハウス
善行の丘に静かに佇む白亜の洋館、「グリーンハウス」。アサンテスポーツパーク(神奈川県立スポーツセンター)の敷地内にあり、国の登録有形文化財にも指定されている。その優美な姿の裏には、ゴルフ場のクラブハウスから戦争の司令部、そして戦後の集合住宅へと、時代の荒波に翻弄され続けた歴史が刻まれている。
社交場から軍の拠点へ
グリーンハウスの歴史は1932年、ゴルフ場「藤澤カントリー倶楽部」のクラブハウスとして幕を開けた。旧帝国ホテルなどを手掛けた世界的建築家アントニン・レーモンド(1888〜1976年)が設計した建物は、政財界の要人や文化人が集う社交の場として賑わいを見せた。しかし、その平和な時代は長くは続かなかった。
43年、ゴルフ場を含む広大な敷地は海軍に徴用され、グリーンハウスは「藤澤海軍航空隊」の司令部が置かれることになった。周辺には兵舎が建てられ、地下には防空壕が掘られた。
航空隊には若者たちが集められ、ここで訓練を受けていた。燃料不足により飛行訓練ではなく、主に整備や通信の教育の場となり、レーダーや無線を取り扱う実習訓練が行われた。
12世帯の「我が家」
終戦直後の45年9月、同地は米軍に接収され、550人の米兵が駐屯した。ハウス内には第12連合航空隊司令部が設置された。司令部機能が薄れていき、47年に米軍は完全撤収した。
建物の歴史はここで終わらない。米軍の接収が解かれた後、住宅難などの影響から、藤嶺学園の教員家族らが住まいとした。一時は12もの世帯がこのグリーンハウスの中で暮らし、部屋では板張りの床にゴザを敷いて過ごすなど、それぞれが「我が家」となった。
同建物の保全活動を行う「善行雑学大学」がまとめた『グリーンハウス物語』には、どの部屋に誰が住んでいたかが詳細に記されており、その中には「福本イズム」で知られる思想家・福本和夫氏の名前も見られる。
「グリーンハウス」という愛称が生まれたのもこの頃だ。戦後、建物を利用したキリスト教系の福祉活動家たちが、緑の瓦屋根を持つことから「グリーンハウス」と呼び始め、それが自然と定着したという。
市民の力で未来へつなぐ
現在、グリーンハウスの一部は展示スペースとして公開され、その歴史を学ぶことができる。善行雑学大学のメンバーは「登録有形文化財になったからといって、使わなければ意味がない。多くの人に利用してもらい、文化や芸術、スポーツを楽しむ交流の拠点となってほしい」と語る。
今年10月には、建物のライトアップイベントも企画されており、その歴史的な価値と美しさを改めて発信する予定だ。戦争と平和、そしてそこに生きた人々の記憶を静かに宿しながら、グリーンハウスはこれからも地域のシンボルとして、新たな歴史を刻んでいく。
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