平塚・大磯・二宮・中井 社会
公開日:2025.09.19
「日本のためなら怖くない」
二宮町在住 西山伊三郎さん
二宮町二宮在住の西山伊三郎さん(95)は、生まれ育った二宮町から遠く離れた台湾の地で戦争を体験。15歳にして、海軍や本土からの情報を台湾の司令部に電報などを使い伝達する「電信兵」を務めていた。
二宮尋常高等小学校に通っていた14歳の時、志願して少年兵に選ばれた。「当時は町の人たちから、英雄だと言われた」と振り返る。電信学校で無線のやり取りを学び、15歳で台湾の海岸防衛の任務についた。少年兵を志願した時も、電信兵として戦地にいた時も、「日本のためなら怖くない」と自身を鼓舞した。
何度も死を意識
台湾では地下2階にある電信室で24時間交代で働いた。細長い無線機で味方から連絡を受け、軍の作戦やアメリカ軍の情報が書かれた暗号を司令部に持っていく役割を、夜間と日中の交代制で担った。
地下での任務中爆撃の振動を感じるとアメリカ軍の来襲に身構え、天井に空いた穴からは攻撃を受けた土煙がもうもうと舞っていたという。
台湾に向かう船では、アメリカの戦艦から砲撃され、激しく揺れる甲板にしがみついた。伝染病のマラリアにかかったことも。「何回も死にそうになった」と振り返る。
終戦後も任務遂行
台湾の地で終戦を知ると、「なんとも言えない。悲しい思いだった」と語る。電信兵は終戦後も情報伝達係として現地に残り、「台湾から日本に戻ったのは最後だった」と46年4月まで任務を全うした。
帰国して感じたのは、アメリカと日本の機械や産業の進歩の差だった。「荷物を運ぶのにも日本はまだトロッコを使っているところがあったが、アメリカは整備された車などを使っていた。これでは勝てない」と愕然とした。しかし、それが「日本を立て直そう」という生きがいに変わり、戻った二宮町で農業に就いた後、守山乳業や、横浜ゴムに勤務したほか二宮町議を務めるなど地域貢献に尽力した。
「第二次世界大戦で終わりかと思ったのに、まだ世界で戦争が続いているのは悲しい」と憂慮する。「戦争を体験して、自分の家庭があることの大切さがわかったし、それを守るために必死に仕事を頑張った」と、愛する家族に捧げてきた人生を振り返った。
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