小田原・箱根・湯河原・真鶴 文化
公開日:2022.12.03
【Web限定記事】鎌倉殿と県西地域 番外編➁
「実朝の首塚はなぜ秦野に?」
寄稿:小田原史談会
タウンニュース紙面で8回にわたり、小田原史談会の寄稿で連載した大河ドラマ「鎌倉殿の13人」のゆかりの地を史書や地誌などから読み解いた連載コラム「鎌倉殿と県西地域」。県西地域が舞台では無いものの、物語のキーとなるエピソードを「番外編」としてWeb限定で紹介します。今回が最終回です。
頼朝の次男三代将軍実朝は小倉百人一首に鎌倉右大臣作として載っているほどの歌人である。が、まだ二七歳という若さで兄賴家の息子公暁に暗殺された(一二一九年)。所在がわからなくなっていた実朝の首はしばらくして波多野氏(秦野市)のもとに届けられた。
波多野氏は渡来人の秦(はだ)氏の末裔が朝廷より相模守に任じられ、この地に土着したことに始まると伝わる。荘園管理人からのし上がっていった地方の武士とは違い、波多野氏は宮廷での地位も高い異色の一族であった。代々の嫁も京都から来た。平安時代末、波多野義通が京都で頼朝の父義朝に仕えた縁で、彼の妹と義朝の間に長男朝長が松田亭(松田町)で生まれた(一一四四年)。父頼朝の兄であり、実朝にとっては伯父にあたるが、会ったことはない。波乱はあったが波多野氏一族は重要な御家人になった。
壇ノ浦の戦い(一一八五年)と承久の乱(一二二一年)で平氏は滅び、後鳥羽上皇は隠岐に流刑となった。敗れた皇族、貴族や寺社、平家の武士達の所有する荘園は東北から九州まで全国各地に膨大な数があった。この勝利は鎌倉殿が御家人たちに恩賞地を与えるに実に幸運なチャンスとなった。恩賞地を貰った御家人一族とその家臣達は故郷を離れ、民族大移動と言ってもよいほどに数多くの武士達が各地に移り住むことになった。その子孫達がその後六百年続く「武士の時代」を創り上げていくことになる。
波多野一族も例外ではなく、和泉国・石見国・出雲国・越前国・豊後国などに定着した。越前の波多野義重は曹洞宗の道元を支援して永平寺を設立(一二四四年)し、日本宗教史にその名を残した。後の戦国時代にキリシタン大名として名をなすことになる九州豊後国の戦国大名大友宗麟は小田原の大友を本貫とする波多野一族である。
さて、実朝の首塚がなぜ生まれ故郷の鎌倉でもなく、母政子の実家の伊豆の北条でもなく、伯母の実家があった西相模の秦野にあるのか。当時は骨肉相食む時代であった。血縁の近さが頼れる相手の尺度になるとは限らない。陰謀渦巻く当時の源氏一族や御家人達の勢力関係、相互の信頼関係を垣間見ることが出来る歴史のエピソードである。
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