「国民の模範」とされた像 受け継がれる推譲精神
秦野市内の小学校には全部で7体の二宮金次郎像がある。薪を背負い本を読みながら歩く二宮尊徳の少年時代を模したものだ。
「報徳仕法」と呼ばれる「至誠・勤労・分度・推譲」を実践してきた二宮尊徳は1904(明治37)年、国定教科書が制定される際、少年時代の逸話が載せられた。二宮金次郎の名は全国に浸透し、姿をイメージしやすいよう、彫像を作る動きが起こった。
銅像は1928(昭和3)年頃から建立され始め、小田原市の報徳二宮神社の像がモチーフとなった。その後、全国の小学校に約1000体が制作されたという。
その頃の日本は郷土教育で祖国に奉仕することが推進される一方、世界的な金融恐慌に端を発する昭和恐慌で経済的にも暗い時代だった。さらに満州事変も追い打ちをかけた。
このような状況下で、二宮金次郎が行ってきた貧困の中でも親孝行し、兄弟を大切にし、倹約を心掛け、勉学に励む姿は国民のあるべき姿の模範とされ、像の建立に拍車がかかった。江戸時代に多くの藩や民を救った二宮尊徳の姿は当時の日本政府に「利用された」という見方もある。
市内の金次郎像は再建物
秦野でも1935(昭和10)年から1938(昭和13)にかけて北、東、大根、西、上小学校など相次いで7体の金次郎像が建立された。余った富を次代へ譲るという「推譲」の精神に基く寄付によるものだ。
しかし、1941(昭和16)年に始まった太平洋戦争下で、あらゆる物資が戦争遂行のために集約され、兵器製造に欠かせない金属の回収令も出た。
市内の金次郎像は1942(昭和17)年に供出要請通知があり、北秦野国民学校(現・北小学校)で行われた金次郎像の壮行会の記録には「供出」ではなく軍人の出征などに使用された「応召」という言葉が残る。単なる一個の銅像の供出ではなく、一人の血の通った人間が出征するかのように供出されたという。市内の他の金次郎像も同時期に台座を残して供出された。
現在市内に残る像の多くは戦後に再建されたものだ。銅だけではなく石で彫られたものもある。今年新たに南小学校に金次郎の石像が寄贈された。尊徳の推譲精神は現代にも息づいている。
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