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秦野版 公開:2015年10月8日 エリアトップへ

特別企画 戦後70年 記憶をつづる 〜寄せられた手記から〜

社会

公開:2015年10月8日

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銀色に光るB29

 昭和12年東京(牛込)生まれで、昭和18年頃から戦争の影響を受けました。食べ物が無く、家族4人いましたが、母を含め、弟、妹3人が亡くなりました。父は戦地へ行きました。それで千葉(船橋)の叔父の家へ預けられました。そこで昭和19年頃からB29の空襲を受け、焼夷弾で周囲の家は全部燃えてしまいました。B29は陽に照らされ、銀色に光っていました。住んでいた家は不発弾で残りましたが、危険なので、叔父の家族と一緒に茨城(龍ヶ崎)の実家に疎開しました。羽田に兵器工場があるので、そこでも空襲に遭いました。小学校1年頃でしたが、空襲で何度も避難しました。実家で終戦を知りました。父が昭和21年に復員しましたが、仕事が無く、食べ物が無かったです。サツマイモや川魚を捕ってきて、飢えを凌ぎました。戦争の恐怖(火災)を体験したので、東京の消防に就職し、防災に尽くしました。自然が好きで、45年前に秦野市に越してきました。自然災害に備えるために防災士の資格を取り、防災の活動をしています。

■北矢名 塚本清治(77)

在留邦人の生活

 私の育った町は旧満州最南端安東(現丹東市)で、鴨緑江をはさんで対岸は北朝鮮の新義州という国境ののどかな町でした。戦時中女学生だった私は学徒動員で、工場で飛行機の部品を作る作業でした。最後の1カ月は、本土決戦に備えて看護婦教練を受けていました。8月9日にソ連が参戦してきたのです。満州は大混乱に陥りました。その中、関東軍は家財道具を持ち家族と先に逃げ出したのです。我々在留邦人は捨てられたのでした。北満の開拓団の方々は着の身着のまま南へ逃げてきたので、安東の町は人であふれました。その後、玉音放送があり、日本は負けたのです。学校は閉鎖されてしまったのです。その後、町では国府軍と八路軍の戦いが始まり、八路軍が制圧して落ち着くまで、怖い思いで息を潜めて生活していました。その後、引き上げが始まるまで、家財道具を中国人相手に売って生活していました。軍隊も警察もない難民となった在留邦人の苦労は大変なものです。翌年私の家族は鴨緑江から闇船で脱出し、朝鮮半島西側黄海を2週間漂い、やっと仁川港に入り、京城の米軍収容所に2週間入れられ、仁川より引き揚げ船に乗り佐世保港に上陸できたのです。安東を出て1カ月半の長い長い引き揚げの旅でした。

■南が丘 池田貞恵(85)

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