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都筑区 社会

公開日:2026.08.13

「東京が一番ひもじかった」 南山田町 本藤澄子さん(87)

  • 「東京が一番ひもじかった」 (写真1)

 南山田町在住の本藤澄子さん(87)は太平洋戦争当時、東京の麻布に両親と5人の兄姉と暮らしていた。幼稚園の頃、戦況の激しさから、家族で両親の故郷の岡山に疎開したが、1年も経たずに東京へ帰京。程なくして、東京大空襲に見舞われた。

 空襲は「(自宅近くの)赤羽橋を狙って落としたのでは」と思ったほど、焼夷弾の雨が降り注いだ。「焼夷弾の落ちる音が怖い。今でも花火の音を聞くと身震いする」と表情をこわばらせる。

 澄子さんら家族は近くの芝公園に避難し、全員一命をとりとめたが、周りは一面焼け野原。自宅も全焼した。空襲に備え、呉服問屋の娘だった母が、反物を油紙で包み、行李(こうり)に入れ、家の前の地面に埋めて守ろうとしたが、目印に立てた棒から火が回り、残念ながらそのほとんどが灰燼に帰してしまう。

 空襲後、宮大工だった父は焼け野原の中にすぐに家を建て、風呂まで作ってくれた。「避難していた人たちが薪を手に、風呂を借りに行列を作っていた」と大変な中での穏やかな日常の一風景を思い出す。

平和の積み重ね

 戦前はまだ何とかなっていた食物は、戦後、何もなくなった。「東京が一番ひもじかったですよ」と澄子さんは視線を落とす。

 空襲だけでなく餓えで命を落とす子どもたちの遺体が積み重なる光景を今でも覚えている。「栄養失調なのにお腹が異様に膨れて。(遺体は)時間が経つとウジがわいてしまうので、火葬するため仕方なく大人たちが瓦礫の木材などで火をつけると、スルメをあぶった時のように手足が動いて…」と衝撃的な様子を打ち明けた。「同級生も大勢亡くなった。自分は皆の分まで生きている」としんみりと語った。

 2人の兄は芝公園の弁天池でコイを捕まえたり、ハスの実を採ったりして家族のための食料を調達した。澄子さんもしいの実やむかごを採ったりして飢えをしのいだ。

 母は、焼失を免れた呉服を米に替えるため、兄たちと一緒に麻布から綱島までを往復した。枕や胴巻きにして持ち帰った米も「途中で捕まってしまうこともあって。すべて持ち帰ることはできなかった」と当時を振り返る。皇居に向かって「米寄こせ」と叫ぶ人の姿も目にした。「あのひもじさは体験した人でないと分からない。今こうして穏やかに暮らせるのは、平和の積み重ねがあったからこそ。これからの人たちに二度とあのひもじい思いをさせてはいけない」。戦争体験者として自らに言い聞かせるように言葉を継いだ。

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