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戸塚区・泉区 コラム

公開日:2025.10.09

第119話 〜江戸から近代へ:宿場・立場のその後〜
とつか歴史探訪

 街道を賑わせた宿場・立場はその後どうなったのでしょうか。宿場は、国道沿いに戸塚駅前の商店街として発展しました。

 戸塚町上宿辺り清源院の脇から入る矢沢道は、現在は「ルートワン商店街」になっています。この先の矢沢交差点は隧道でした。関東大震災で崩落し、災い転じてか...切り通しとなり、長後街道として開通しました。この溢れた大量の土砂で国道と柏尾川の間の田を埋め、旭町通商店街としての賑わいに繋がっていきました。

 立場は、国道が通ったか否かで様相が変わりますが、総じてその賑わいを失い、存在自体が見えなくなりました。

 境木立場は明治17(1884)年、迂回ルートの新道が開通。明治20(1887)年には、東海道線の鉄道開通など交通機関の発達により、留まる町から単に素通りしていく町に変わっていき、町は急速にさびれていきました。

 そのころの様子について、境木を愛した俳人の荻原井泉水(せいせんすい)が、記しています。「権太坂は、ときどき人が通るだけとなり、8mあった道幅も半分ほどになり、木がおおいかぶさり寂しいものとなった。焼き餅坂や近くにあった『茶屋』や『かなぐつや』なども平戸の国道沿いに移っていった。どうも此の境木の再建の問題は難しい、やはり境木の地蔵様の夢のお告げを待つより仕方ない...」

 上柏尾の提灯立場は、この辺りのみ国道ルートから外れたため、賑わいは全くなく、立場の存在すら忘れ去られているかの如くです。

 一方で国道沿いの原宿立場は、商店街として今も人の行き来があります。

 今では、町中で宿場・立場の面影を伝えるものを見ることは難しくなりましたが、立場の跡は街道を注意してみると案内板に見ることが出来ます。

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