保土ケ谷区 コラム
公開日:2026.06.11
「保土ケ谷区史」と歩く歴史の散歩道 第7回『保土ケ谷の特徴』【1】オゾンの多い健康地 寄稿 金子宣治
今回と次回は、明治から大正、昭和初期までの保土ケ谷の特徴を見てみましょう。
「東に横浜港を望み、西に富岳を仰ぎ、高燥にして勝景の地たり…」
桜ケ丘の岩崎中バス停脇にある昭和16(1941)年に建立された「耕地整理記念碑」に記されている当時の保土ケ谷丘陵地の様子です。
この時代の保土ケ谷を表す”ひとこと”は、「オゾンの多い健康地」です。明治20年代にはフランス人商人ドリールが現在の権太坂小学校のあたりに邸宅を構えました。そのほか療養所もあり、特に、喘息患者は、毎日、麦飯に川魚、ゆであずきなどを食べていれば、医者もいらず10日もすれば澄み切った空気が体力を回復させたというほどでした。
1910年代から1920年代にかけてのいわゆる”大正デモクラシー”と言われる頃になると、社会全体に洋風と和風が融合し始め、建築の世界でも、アメリカ西部の簡便なコロニアル風の小住宅「赤い瓦に白い壁」を参考にした文化住宅が建てられるようになりました。
保土ケ谷においても、歌人で精神科医の斎藤茂吉がその歌集「寒雲」(昭和15年刊)の中で、「保土ヶ谷の高処(たかど)に見ゆる家群(いえむら)はイタリアの国ゆけるに似たり」と詠んでいるように、昭和戦前期には桜ケ丘あるいは月見台の辺りには文化住宅が立ち並んでいたようです。
この時代、〈わがまち保土ケ谷〉には現桜ケ丘高校近くの保土ケ谷葡萄園、西谷の中田葡萄園などぶどう園が多くありました。なかでも程ケ谷カントリー倶楽部に隣接した帷子葡萄園は、季節になると横浜駅から特別バスが出て、まさに行楽地となっていました。隣接するゴルフ場に来た外国人や新聞記者などもやって来て、さながら文化人のサロンとなっていたようです。
この時代には珍しいコンビーフのサンドイッチやチキンライスなど、ハイカラな食事も楽しめました。今の峯小学校の辺りには皇国葡萄酒の醸造所もありましたので、当時の保土ケ谷には文化の香り、ワインの香りが漂っていたのではないでしょうか。
ピックアップ
意見広告・議会報告
保土ケ谷区 コラムの新着記事
コラム
外部リンク
- LINE・メール版 タウンニュース読者限定
毎月計30名様に
Amazonギフトカード
プレゼント! -

あなたの街の話題のニュースや
お得な情報などを、LINEやメールで
無料でお届けします。
通知で見逃しも防げて便利です!











