保土ケ谷区 コラム
公開日:2026.07.09
「保土ケ谷区史」と歩く歴史の散歩道 第8回『保土ケ谷の特徴』【2】保土ケ谷いもとお茶 寄稿 金子宣治
前回に続き明治から昭和にかけての〈わがまち保土ケ谷〉の特徴を見てみましょう。この時期はじゃがいもも有名でした。東京の中央卸売市場でも「保土ケ谷いも」などと呼ばれ、品質が良いうえ収量も多く、明治初期から昭和にかけて、保土ケ谷はじゃがいもの種芋の名産地として全国にその名を馳せていました。
昭和5(1930)年には、保土ケ谷駅から全国に向け、約2300トンも出荷していたという記録が残っています。
これは、明治41(1908)年より現横浜市立峯小学校の地に立地し、当時の最先端の農業技術の指導を行っていた神奈川県立農事試験場がじゃがいも栽培を研究していたため、保土ケ谷でじゃがいもの栽培が盛んになり、種芋の供給地として全国にその名が知られることになったのでした。
このじゃがいもの歴史を後世につなぐため、約20年前の保土ケ谷区制80周年の時に地産地消も兼ね、特に糖度の関係でお酒になり易いキタアカリで焼酎を造り「ほどじゃが焼酎」として世に出しました。その後、紆余曲折はありましたがおかげさまで好評価をいただき、地元のお酒屋さんのほか、横浜高島屋地下一階のお酒売り場で好評を博しています。これらについては、後の回で紹介することにします。
なお、県立農事試験場は、後の回で紹介する富士瓦斯(ガス)紡績の拡張による水田面積の減少や同工場の煤煙による作物被害の影響などから、大正11年(1922)年には現鎌倉市に移転しました。
一方、新井新田(現新井町)は、傾斜地のため生産性の低い畑が多い土地でしたが、明治7(1874)年、この地を伊勢四日市の黒崎半七が地主の新井忠兵衛から借り受け、茶の栽培を始めました。
茶畑は、開墾と改良を進めましたが、生産力、品質ともに低く、先進地宇治などから茶師を招き技術を習得するなど努力を重ねました。明治16(1883)年には、兵庫県神戸の製茶共進会に出品、煎茶が6等に入選するほどに品質も向上し、生産高も増加してきましたが、地形上から反当たりの収量は多くありませんでした。
大正末から昭和初めにかけて、新井新田は18戸の農家が茶の栽培に従事し、高台から見ると茶畑が整然としていたといいます。昭和の初め、毎年5月になると、近在の女性たちが、新調した着物に赤、青のタスキ、薄化粧で茶摘みの仕事に集まり、はなやかで新井新田の風物詩であったそうです。その名残は、茶の葉と花を図案化した横浜市立新井小学校の校章に残っています。
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