中原区 社会
公開日:2026.07.31
戦禍の記憶【1】 中原区井田杉山町在住 大隈幸子さん(91) 山門に佇み、母を待ったあの日 栃木へ渡った9歳の少女
1944(昭和19)年1月、父を亡くした大隈幸子さん(91)は、母と2人きりになった。東京・麻布の南山国民学校3年生だった同年8月、戦火を逃れるため、栃木県足利の山川長林寺へと向かう学童集団疎開に参加する。
集団疎開は小学3年生から6年生が対象だった。出発の朝、集合場所の田町駅までの道のりは、いとこで後に昭和天皇の侍従長となる山本悟さん(お兄さま)に手を引かれた。幼い子が水筒とおにぎり2つ入れたリュックを背負い、まだ見ぬ疎開先へと旅立った。
空腹と孤独、シラミに耐えた日々
疎開先での暮らしは惨憺(さんたん)たるものだった。寺の本堂で寝起きし、地元の学校に通う日々。食べ物は常に不足し、ノビルや山菜を摘んで空腹をしのいだ。ひもじさのあまり、境内近くのシドミの実を食べて、意識不明になる子もいた。
風呂にも満足に入れず、体にはシラミやノミがたかった。ホームシックから親元へ帰ろうと駅へ走り、連れ戻されて境内の柱に縛り付けられて泣き叫ぶ上級生の姿に、幼なかった大隈さんは震え上がったという。家族への手紙はすべて検閲され、自由な言葉を残すことすら許されなかった。
山門に刻まれた母の記憶
忘れられない光景がある。2カ月に一度の面会日。周囲の級友たちの家族が次々と訪れる中、待てども母は現れない。「空襲に遭ったのでは」と不安に押しつぶされそうになりながら、山門から続く一本道を一心に見つめ続けた。
昼過ぎ、遠くに小さな点が現れた。ぐんぐんと大きくなる人影――母だった。バスに乗り遅れ、歩いて駆けつけた母の温かい胸に抱きついた時、涙が溢れ出た。母が道端で分けてもらったというザクロの土産。泣きじゃくりながら食べたその実は、ルビーのように真っ赤に輝いていた。
家族の温もりを語り継ぐ
翌年8月に終戦を迎え、帰郷を果たした大隈さん。「不安や孤独を味わったあの体験があるからこそ、家族の尊さが身にしみる」と語る。歳月が流れ、記憶を語れる体験者は数少なくなった。幼い胸に刻まれた不安と母の温もりを大隈さんは静かに語り継いでいる。
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今年で戦後81年。体験者が年々減少し、戦争の記憶が風化しつつある。当事者の記憶を後世に残すとともに平和の意義について考える。不定期で連載。
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