町田 社会
公開日:2025.10.30
戦争から復興、発展 昭和100年インタビュー
いかに町田ができたのか
東京町田学園理事長 井上博行さん
今年は1926年に昭和が始まって100年に当たる年。この間日本は、戦争、高度経済成長、バブル、高齢化社会への突入と変化を遂げてきた。そして、町田も例外ではない。
どのように街が出来上がったのか、長く街を見続けてきた学校法人東京町田学園理事長の井上博行さんに話を聞いた。
戦禍は限定的
井上さんは1940年、木曽町の農家に生まれた。周辺一帯は全て田んぼ。井戸で水を汲み、娯楽の中心はラジオといわゆる田舎の農村だった。また、境川沿いは「暴れ川で洪水が頻に発生。原町田などは作物を育てるには適さず牧草地として利用されていた」と振り返る。
戦時中、空襲などによる被害は限定的だった。そして、それが商業の街の側面を増していくことにつながった。
戦後になると横浜線に多くの貨物列車が走行していたことや、結ぶ八王子や横浜が大規模な空襲に見舞われたのに対し、被害が少なかったことから物が集まりやすい状況が形成されていった。「横浜線は絹糸と砂利を汽車で運んでいたのを覚えている」。物が集まれば人が集まる。闇市が展開されたり、米軍の払い下げシートを販売した「吉川百貨店」が人気を博したりしたという。
交通網充実で人口増
町田市の人口は1958年からの20年間で約20万人増加する。井上さんによるとこれを支えたのが「高速道路と団地の造成」だ。東名高速道路は1969年に全線開通。交通の便と住環境が整ったことで一気にベッドタウンとしての色を強めた。また、井上さんは「一時期は『東急が長津田から乗り入れてくる』との話を聞いたこともあった」という。東急社内で計画が変更になり実現こそしなかったが、現在も駅前には町田東急ツインズが存在。乗り入れ計画の名残だという。
更なる開発に期待
「(同じく多摩地域の)立川に比べると現時点で町田は再開発が遅れているのではないか」と井上さん。最高値地点での基準地価やリゾートホテルの有無などがそう考える理由だ。「インバウンドも含め、人を呼び込むものが必要だ」と主張する。
現在、町田駅周辺では再開発が進みつつある。さらに来年には市長選。「小田急と新しい市長が協力して、しっかりした街を作って行ってもらいたい」と未来に期待を込めた。
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