満州で過ごした青春 生き証人に聞く戦争体験
太平洋戦争が終結した日から69年。そこで本紙では、先月27日に渋谷学習センターで開かれた「戦争を語り継ぐつどい」(大和・綾瀬年金者組合主催)でも語り手を務めた柳橋在住の田澤昭男さん(85)に、当時の体験談を聞いた。
田澤さんは兵隊としてではなく、日本の青少年を開拓民として「満州国」に送出する制度「満蒙開拓青少年義勇軍」の一員として、満州で5年間を過ごした。
田澤さんが同義勇軍への参加を決めたのは14歳の時。通っていた秋田県の高等小学校で募集があるのを聞き、「自分がいなくなれば、4人の弟の食べるものも増えるのではないか」。そう思い立ち、両親に黙って実印を持ち出し、勝手に応募したという。「父には怒られ、母には泣かれましたが決意は変わりませんでした」と語る。
1942年4月に結成された秋田中隊に入隊。満州での開拓に備えて畑仕事や軍事訓練に従事した。同年9月、満州に向けて新潟から出航。到着後は大石頭という場所で開墾作業にあたった。「荒れ地の開墾は大変な作業。とにかく寒くて、凍った弁当を食べるのが辛く悲しかった」。常に空腹にも悩まされ、畑に埋められた凍ったジャガイモなどを食べて飢えをしのいだ。
その後は挺進隊員として奉天市の三菱機器重工業株式会社に勤務。軽戦車や自動小銃の部品作りに従事しながら、迎えた1945年8月15日。ラジオ放送を聞いて涙する軍人を目にして、初めて日本が戦争に負けたことを知った。「本当に戦況は知らされていなくて。想像もしていなかった」。
その後は状況が一変。日本に帰ることもできず、公安隊につかまり留置場に入れられたこともあった。耳に電極を挟み電気を流したり、水を出しっぱなしのホースをくわえさせられたりする拷問部屋も目にした。「苦しみわめく声が耳から離れず、いつか私も同じ目にあうのでは」。そんな思いは常にあったそうだ。
1947年、当時勤務していたビール工場の計らいで帰国。船から見た日本の島々の風景に心から感動を覚えた。また、東京に向かう途中に目にした、焼け野原になった広島の景色に驚かされたという。
今、田澤さんは言う。「自分は運が良かっただけ。世の中がどう動いているかも知らず、深く考えなかった自らの愚かさが悲しい。同じ過ちを繰り返さないためにも、今、何が起きているのかを見極めていきたい」。
|
|
|
|
|
|
|
|
<PR>