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公開日:2021.08.13

戦後76年
忘れ得ぬ 疎開の記憶
県遺族会語り部 飯田恭久さん

  • 静岡県吉原町の寺で学童疎開していた頃の集合写真

  • 当時の記憶を振り返る飯田さん

 8月15日は、76回目の終戦記念日。本紙では大和市戦没者遺族会の前会長で語り部活動を続けている飯田恭久さん(86・中央林間在住)に戦争当時の体験を聞いた。



 飯田さんは1934(昭和9)年生まれで、東京市荏原区西戸越(現在の東京都品川区戸越)出身。京陽国民学校(現在の品川区立京陽小学校)の4年生だった44年7月、学童疎開で静岡県富士郡吉原町(現在の静岡県富士市)の寺に集団疎開した。5月には父が満洲へ招集されるなど、戦況は厳しさを増している時期だった。



 集団疎開した子どもたちは総勢60人。学校の先生と寮母が付き添った。



 一番苦労したのは食糧の確保。食事は味噌汁に麦の粒が少しだけ入った雑炊のみ。それだけでは足りず、夜にこっそり同級生と畑に行き、少し泥がついたサツマイモを生のまま食べたり、寺にあった供え物などで空腹を満たした。秋になるとトンボを捕まえて串焼きにして食べたことも。「火であぶって、羽根と尻尾が焼け落ちたら食べ頃」と当時を振り返る。本堂に布団を敷いて皆で寝たり、雨の日に将棋をしたのがいい思い出。「日常生活は大変だったけれど、溌剌と毎日を過ごしていたね」。



東京大空襲で青森へ再疎開



 東京が無数の焼夷弾で焼き尽くされた45(昭和20)年3月10日の東京大空襲。静岡も危ういのでは、と4月に青森県黒石町に再疎開が決まる。



 電車で静岡県から青森県に移動する途中、夜の品川駅に電車が30分ほど停車した。家族との交流時間を設けるためだ。「また空襲が来るかもしれない―」。明日の命も保証されない中、親子らは電車の窓越しに最後になるかもしれない会話を交わした。「移動時間を夜にしたのは敵に見つからないように。ただ、焼け野原になった町を子どもたちに見せたくなかったという理由もあったんじゃないかな」と当時の大人たちの心情を慮る。



 青森県黒石町での疎開生活が4カ月ほど続いた8月のある日。「明日は本堂に集まって」と教師から招集がかかった。本堂に全員が集まり、ラジオから流れる天皇陛下の戦争終結を伝える言葉を聞いた。「悔しくて、みんな泣いていたね」。



戦時中の記憶今尚語り継ぐ



 飯田さんは現在、財団法人神奈川県遺族会の語り部として、県内の小中学校で「戦争と疎開」をテーマに10年ほど講演を続けている。語り部活動で飯田さんは、これからの時代を作っていく子どもたちに「昔はこういう悲惨なことがあったということを知ってもらいたい。そして好き嫌いなくご飯を食べて、一生懸命生きてほしい」と優しく語りかけている。



 語り部活動も当初は県内に40人ほどいたが、語り部の高齢化もあり、現在は10人ほど。それでも飯田さんは「身体が許す限り活動を続けていきたい」と自らの使命のように語った。

 

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