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横須賀・三浦 社会

公開日:2022.03.11

東日本大震災から11年
横須賀で歩む第2の生活
今語られる被災者の記憶

 東日本大震災からきょう3月11日で丸11年が経過した。津波や原発事故などで、かけがえのない多くの命が奪い去られた大災害については近年、風化の兆しもある。東北から横須賀に移住し、人生を再スタートさせた被災者2人。発災当時から現在に至るまでの話を聞いた。

消えた原風景

 午後2時46分。宮城県名取市立閖上(ゆりあげ)小学校の講師だった小野寺聡さん(46歳・長沢在住)=写真=は発災時、激しい揺れの後、校舎の窓から津波を確認した。パニックに陥って泣き叫ぶ児童らとともに屋上に避難。濁流が街を飲み込み、校舎の2階まで水没、所々で炎が上がる見たことのない光景が広がっていた。「子どもに『大丈夫』なんて無責任な声は掛けられなかった」。絶望にうちひしがれる中、職員室にあった角砂糖を皆と分け合い、飢えを凌いだ。翌日の夕方、20Km以上離れた実家に向かって歩き2日かけて帰宅した。

 数日後、閖上小の体育館には無数の遺品が積まれていた。「身内を亡くすなど悲しみに直面しながらも、トイレの水をプールから汲む子どもの姿があった。落ち込んでいる場合ではなかった」。職を失ったものの使命感が自らを突き動かし、自治体の任期付き職員として瓦礫撤去や罹災家屋調査など現場の最前線で復興に奔走。全国から現地に支援に来た温かい人の情けを感じながら、精彩を失った被災地は少しずつ蘇り始めた。

 「中でも神奈川県職員が熱心に手助けする姿が印象的で恩返ししたかった」と2年前の秋、県職員になった。現在はコロナ対策として地域療養支援などに従事。震災に関する講話を通して、防災や減災の大切さも市民に伝えている。「『復興は終わった』と囁かれているが故郷にはもう原風景はなく、完全に元通りにはならない。デジタル化が進み、今後対面で接する場面が少なくなる子どもには特に、普段から譲り合いの心を持って万事に備えてほしい」と呼び掛けている。

今も戻らぬ姉

 「思い出の品はこれしかない」。福島県浪江町出身の志賀金郎さん(70歳・久里浜在住)は姉の遺影写真に目を落とす。

 福島を代表する伝統工芸品・大堀相馬焼の陶工職人だった志賀さん。自宅は屋根瓦が剥がれた程度の被害だったが、翌朝サイレンが甲高い音を立て、消防員から放射能が漏れたことを聞いた。眠い目を擦りながら逃げる中で「連絡がつかない姉を残して行くのは後ろ髪を引かれるようだった」と振り返る。海沿いの請戸地区にいた姉家族は、車で避難途中に津波に襲われた。今も行方不明で、共同墓地に手を合わせることしかできない。

 避難所を転々とした後、横須賀で働く息子の勧めで妻の美根さん(73歳)と市内に移住。大堀地区は帰還困難区域で「帰るに帰れない」状況が続いているが、同様に転居してきた被災者と交流するNPO主催のイベントに参加するなど、新たな日常の営みを噛みしめながら過ごしている。

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