OGURIをあるく 〜小栗上野介をめぐる旅〜第9回 対馬編【3】文・写真 藤野浩章
「蝦夷(えぞ)での出来事を、存じておろうが。あれはまさしく、ヒグマのやり方ではないか」(第一章)
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外国奉行、というと外務大臣のようなイメージを思い浮かべるが、実際は浦賀や長崎奉行などの上位に位置し、いわば老中(ろうじゅう)の"外交担当秘書官"のような役割だ。上役である老中・安藤信正(のぶまさ)
により、小栗に白羽の矢が立ったのだった。これは前年まで遣米使節としてアメリカへ行っていた功績によるものだろう。
しかし就任早々アメリカ公使館の通訳、ヒュースケンが薩摩藩士にとって殺害される事件が起こるなど、攘夷(じょうい)の嵐は日本全国を覆っていた。遣米使節については改めて記載するが、渡米前と帰国後では日本の景色が全然変わってしまっていた、と言っても過言ではないだろう。幕府は弱体化し、財政も大きく傾いていく中で要職に抜擢された小栗忠順(ただまさ)。当時35歳の彼はいきなり、歴史の大きな波に翻弄されていくことになる。
さて、突然日本にやって来たうえに数々の狼藉(ろうぜき)を働くポサドニク号。小栗は、冒頭の言葉のように、力でごり押しするロシアのやり方を熟知していた。その50年ほど前、ロシアが蝦夷に不法上陸する事件があったのだ。今回も簡単にあきらめる筈(はず)がない、と長期戦も予想していた。
そんな"ヒグマ"が上陸した対馬(つしま)・芋崎(いもさき)とは、いったいどんな所なのだろうか。小栗が163年前に見たかもしれない景色を、追ってみることにした。
かつての城下町、厳原(いずはら)から30分ほどレンタカーを走らせると「芋崎」と書かれた殺風景な看板が見えた。ここから、思わぬ試練が始まった。
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