鎌倉と源氏物語 〈第7回〉 1歳年上の同世代無住と第5代執権・時頼
「武士の都」として知られる鎌倉ですが、『源氏物語』と深い関係があることはあまり知られていません。文化薫る歴史を辿ります。
松下禅尼が上東門院(じょうとうもんいん)を敬愛していたというエピソードを『雑談集』に残した鎌倉時代の僧・無住(むじゅう)は、仏教説話集『沙石集』で有名です。梶原氏の出身と伝えられていますが、詳細はわかっていません。
1226年の生まれですから、第5代執権北条時頼より1歳年上。同時代を生きた無住が実際に見聞したことを書いたものとしてとても貴重な記録です。
その無住の『雑談集』によると、上東門院に倣って仏教を篤く信仰した松下禅尼は、仏教を信じない者は召し使わなかったとのこと。そのような環境だったからか、幼い頃の時頼は仏像やお堂を作って遊ぶのが好きだったそうです。
乳母父の御家人たちはそれを見咎め、武士の子らしく弓矢をこそ練習すべきと止めようとしました。しかし、祖父の第3代執権泰時が「この子は釈迦のために祇園精舎を建てた大工の棟梁の生まれ変わりなのだ」と御家人たちを制します。
泰時は夢でそれを見たのだと理由を言いましたが、果たして後年、成長した時頼は実際に建長寺を建立したのでした。
この時、祖父・泰時はまだ兄の経時だけを執権候補として特別扱いで育てています。その分、時頼は母・松下禅尼と過ごす時間が多く、仏教信仰の影響も大きく受けて育ったのでしょう。
織田百合子
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