戻る

鎌倉 社会

公開日:2025.08.01

「見えない『記憶』」後世へ
鎌倉市在住 大津定博さん

  • 大船観音寺の「原爆の火の塔」の横に立つ大津さん

  • 1967(昭和42)年頃の正記さん(左)と大津さん=本人提供

 「私は、被爆2世です」--。そう静かに話すのは、原爆犠牲者の慰霊の場になっている「大船観音寺」(鎌倉市岡本1の5の3)の責任役員を務める、大津定博さん(62・鎌倉市在住)。広島で被爆した父・正記さん(95)との時間を過ごすなかで、「戦争の悲劇を決して忘れることなく、平和の大切さを次世代に伝えていきたい」と使命感を募らせている。

 現在も広島で元気に暮らしているという正記さん。80年前は広島県立広島第一中学校に通う、勤勉な生徒だった。8月6日、原子爆弾が投下された8時15分は、学徒動員の勤労奉仕のため、爆心地から約1・5Km離れた工場にいたという。

 偶然にも建物と建物の間にいて、原爆の光や熱線の直撃は免れた。一緒にいた友人は命が助かったが、他の同級生は「みんな死んだ」。

 凄惨な街の状況を目の当たりにした正記さんの脳裏を過ったのは、爆心地から数百mの距離にあった自宅のこと。帰路を急ぐと、橋が倒壊していて川に行く手をはばまれた。爆風で飛ばされた人や絶命した人々が浮かぶ川を泳ぎ、必死の思いでたどり着いた先に、自宅は無かった。

 倒壊した自宅のなかから死亡した父親が見つかり、その後、看病していた母親や、必死で探した兄弟など多くの家族が帰らぬ人となった。遺体を火葬したのは、正記さんだった。

 「若干15歳の少年が経験するには、あまりにも過酷な現実だった」。父・正記さんを思う大津さんの目に涙が浮かぶ。

 大津家はもともと、正記さんの曽祖父が明治期の広島市長を務めるなど政治家系で、酒造をはじめとした食品関係の商売も手広く行っていた。正記さんも「優秀だった」といい、「すべてを失った喪失感は計り知れない」と大津さんは話す。

 身寄りのなくなった正記さんは親戚の家で育てられ、「家業の再建」を目標にがむしゃらに勉強。大学で酒造を学び、家業を継いだ。

「自分はいつ死ぬのか」

 原爆投下後に降った放射性物質を含んだ「黒い雨」は、白血病などの放射線障害を引き起こす原因の一つになっていた。この雨を浴びた正記さんは、「自分はいつ死ぬのだろうか」と、結婚をためらったという。影響は無かったが、子どもにまで見えない影を背負わせてしまうのではないかと思い、「怖かった」と振り返る。30歳を過ぎて結婚し、3人の子宝に恵まれた。「みんな元気だ」

 「戦争なんて国同士の戦い。結局市民が巻き込まれ、死んでいく。若者もいなくなって、復興も大変だった」。当時を思い出すように話す正記さんの表情は、曇ったまま。時を経ても悲しみは癒えない。

 こうした戦争体験を聞けるようになったのは、ここ数年のこと。父・正記さんから聞いた「見えない『記憶』を後世に伝え、平和を訴え続けていくことが、被爆2世としてやらなければいけないこと」。大津さんは気持ちを奮い立たせ、平和への願いを発信し続ける。

ピックアップ

すべて見る

意見広告・議会報告

すべて見る

鎌倉 ローカルニュースの新着記事

鎌倉 ローカルニュースの記事を検索

コラム

コラム一覧

求人特集

  • LINE
  • X
  • Facebook
  • youtube
  • RSS