戻る

鎌倉 社会

公開日:2025.08.15

国策映画と大船撮影所
小津組カメラマン 兼松熈太郎さん

  • 取材に応じる兼松さん

 戦時下、国策として戦意高揚作品が数多く作られた。当時、鎌倉市に大船撮影所を構えていた松竹株式会社もその一つ。同社と、小津安二郎監督の撮影チーム「小津組」カメラマン・兼松熈太郎(きたろう)さん(88歳・鎌倉市在住)に話を聞いた。

 映画作品では、トップスターそろい踏みの国策映画『開戦の前夜』(1943年)、疎開を促進するための『歓呼の町』(44年)、アニメでは、鎌倉の漫画家・横山隆一の『フクちゃん』も真珠湾攻撃をテーマに戦意高揚作品が作られた。

 人情劇を十八番とする松竹だけに「当時も本音では作りたくなかったはず」と社員は語る。田中絹代出演の『陸軍』は、「木下惠介監督が作品を撮れなくなる覚悟」で作った作品だ。国策映画でありながら、出征する息子の後を必死で追いかけ、複雑な表情で案ずる母の姿を描いた。反旗を翻すことは決して許されない時代。絶妙な表現で反戦の思いを乗せた。

名監督作品にも軍歌

 松竹を代表する名監督、小津安二郎も戦時下に国策映画を作っている。『父ありき』(42年)では、ローアングルや固定撮影などの小津調はそのままに、徴兵検査や軍歌が登場する。

 57年に松竹に入社した兼松さんは、カメラマンとして小津監督を支えた。明け方まで共に過ごす家族のような「小津組」だったが、戦時下の作品作りを語る先輩は「誰もいなかった」。

 戦時下、兼松さん自身はまだ幼く、松竹少女歌劇団のスターだった母と弟と共に新宿区から岐阜県へと疎開。空襲警報が鳴り、防空壕に入ろうとした時、「お位牌を忘れた」と家族で引き返した後、防空壕の入り口で爆弾が破裂した。「中にいたら蒸し焼けだった」

 終戦後、都内に帰ると自宅は見る影もなかった。父は早くに亡くなっており、祖母を頼って生活の場を確保した。食料は母が工面してくれた。

 「長男なんだから、お母さんを助けてやらないと」と両親の仲人だった松竹の城戸四郎社長の計らいで、高校卒業後に入社。右も左も分からないまま、家族のためにと撮影の技術を学んだ。

 『彼岸花』などの名作にも携わり、「映像を娯楽として楽しめる良い時代だった」と懐かしむ。その後もCMやドキュメンタリーの撮影に熱中。「ハワイ行きの日本丸に1カ月乗ってね」と軽快に語る兼松さん。平和や戦争への思いを尋ねると、少し考え、「私には大それたことはいえないよ」と口をつぐんだ。

ピックアップ

すべて見る

意見広告・議会報告

すべて見る

鎌倉 ローカルニュースの新着記事

鎌倉 ローカルニュースの記事を検索

コラム

コラム一覧

求人特集

  • LINE
  • X
  • Facebook
  • youtube
  • RSS