小田原に残る戦争の記憶を、人・もの・場所を介してシリーズで綴る連載の25回目は、終戦の日に合せた特別版。今回は体験者も少なくなった「小田原空襲」を中心に、戦禍の記録を紡ぐ。
1945年8月15日未明、小田原市浜町一帯(地図【1】)に焼夷弾が降り注いだ。群馬県伊勢崎市と埼玉県熊谷市を攻撃した米軍のB29が、伊豆半島方面への帰路の途中で爆弾を落としたとされる「小田原空襲」だ。国際通り付近が約450mにわたり「まるで昼間のように明るくなった」。当時の様子を、お堀端で被災した小磯セイ子さんはこう振り返る。
鎮火から数時間後の15日正午、玉音放送が流れた。終戦―。
左の写真は、市内本町の古清水旅館資料館(地図【8】)が所蔵する1枚。小田原空襲から1週間以内に撮影された写真には、旅館入り口で棒を片手に力強く立ち、しっかりとカメラを見つめる旅館の16代目当主・清水専吉郎さんと従業員が写っている。
「日本最後の空襲の一つ」とも言われる小田原空襲で、命を落とした人は12人、約400軒の家屋が焼失した。
終戦から70年、現在市内に住む70歳以上の人は3万7839人。戦争体験者の生の声を聞ける機会は、年を追うごとに確実に減ってゆく。
1cmの穴が伝える機銃掃射の脅威
市内寿町の建設会社・(株)田中組(地図【4】)の玄関脇には、1945年8月の米軍による機銃掃射の弾痕を残した橋げたが展示されている。
高さ約1m、幅約1・5m、さびた緑色の橋げたは、当時の「青橋」のもの。93年に橋の架け替え工事を行った同社が、後世に戦争の爪痕を伝えるべく保存を続けている。厚さ1cmを貫通した直径1cmほどの穴が、弾の威力を物語っている。
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